比較による「相対的な幸せ」から、
ただ在る「絶対的な幸せ」へ
[相対的な幸せ]
時間の中の相対的な幸せ
一般的に 人が「幸せ」を感じるのは、
「過去」と比べて
「いま」が「より良く」なった場合。
「いまここ」 の 「幸せ:快:心地よさ」 の
絶対値ではなく、
絶対値と思われるものの変化、
良い方向への変化に「幸せ」を感じる。
したがって、その「幸せ」は
変化した一瞬にしか感じられない。
だから「幸せ」を感じ続けるには、
「いま」と比べて「未来」が
いつも「より良く」なくてはならず、
良い方向へ向かって
永遠に変化し続けなければならない。
しかし そんなことは不可能なので、
いずれ破綻し、
その破綻は「不幸:不快」につながる。
【転換苦】
だが 途中でそのことに気づき、
いまの絶対値の中に
「幸せ:快」を見出そうと変わる。
この場合、
自分が満足できる絶対値が維持できれば、
「幸せ」は続く。
でも いつか必ず、
維持できないときがやってくる。
このとき「幸せ」は破綻し、
やはり「不幸」が訪れる。
【転換苦】
これでは いずれにせよ、
潜在的な「不幸」という
嫌な「未来」を抱えたまま、
怖れの中でしか生きていくことはできない。
「快」を 求め、
「快」を 維持することが「幸せ」だ
と思っているかぎり、
その幸せは 無常の原理によって
かならず破綻し、転換苦となる。
「快の感覚」 を幸せと思い 追求することを、
仏教用語では「渇愛:貪」と呼ぶ。
社会(という空間)の中の相対的な幸せ
もうひとつ、
他者と比べて自分の方が「より良い」と
思えたときに、「幸せ」 を感じることもある。
しかし すべての他者より自分が、
いつも「より良い」ことなどあり得ない。
したがって、
自分より「良い」誰かと出会ったときに、
必ず「不幸」を感じることになる。
いずれにせよ このような視点では、
「幸せ」で居続けることはできない。
いつも 潜在的「不幸」の不安の中にいる。
(それはそれでいいのだが…)
比較の(相対的な)視点
このような視点とは、比較の視点である。
時間の中で「過去」と「いま」
「いま」と「未来」を、
社会の中で「自分」と「他者」を
比べている。
「全体」を観ることなく、
時間と空間の中の 「部分」 にこだわっている。
比べることができるものは 「部分」 だけだ。
そうではなく、
比較することのない「いま・ここ」の
あるがままの状態に
「幸せ」を感じることができるか?
その「幸せ」とは、
比較の視点での「幸せ」とは
まったく別のものである。
比較における「幸せ」は
対になる「不幸」という概念をもっている。
対立概念を持つものは、
かならず他方の概念により相殺され、
どちらか一方の状態が永遠に続くことはない。
対立概念は、思考により
世界が二分されることによって成立し、
二分され・分離され・限定されることで
「比較」が発生する。
思考で分割される前の
「全体」 としての世界そのもの同士は
「比べる」 ことができない。
人生を 時間で分割・分離すると
「幸/不幸」が発生する。
人生を 全体でとらえ、
要素としての 「幸/不幸:快/不快」 を超越すると、
「本当の幸せ」が見えてくる。
世界を 他者と自分に分割・分離しても
(優/劣という)幸/不幸が発生する。
他者と自分は(自我を構成する)要素(部分)
においては違っていても、
本質(全体)において同じであることが
理解できれば、
他者と自分は違わないことに寛ぐことができ、
「本当の幸せ」が見えてくるだろう。
「比較による相対的な幸せ」 とは、
比較による条件を満たしたときの幸せであり、
「条件つきの幸せ」 と言い換えることもできる。
とはいうものの、
人類の文明の進歩を促し、
物質的繁栄を築きあげたものは、
この「相対的な幸せ」を求めて止まない
特性であるだろうが…
[絶対的な幸せ]
比較のない・対立概念のない
「絶対的な(本当の)幸せ 」は、
「いま・ここ」で すでにもう存在している。
それには 「不幸」 という対立概念がないので、
「不幸」にはなり得ない。
それは 普通にイメージされる
「幸せ」感覚とはまったく違っていて、
深く受容されている・愛の中にある・
許されている、という感覚である。
ここが 「ふるさと:わが家:自分の居場所」 だ・
ここに居ていいんだ・OKだ・これでいいんだ、
という感覚。
満たされている・もう十分だ、 という充足感。
どこにも・何も問題はない、 という深い安心感。
たしかな共同体の一員である・
無限で完全な全体の一部である、 という納得感。
快/不快では捉えられない感覚・自由・解放。
それに気づくかどうか...
わたしは 部分(個人)として
(わたしを含み、わたしを超えるネットワークである)
全体の一部でありながら、同時に
(わたしという)全体そのものでもある。
【梵我一如:縁起ネットワーク】
わたしたちには 異なる要素があるとしても、
他者の中に自分を見つけ、
自分の中に他者を見つける
(同じ要素も見つける)ことができる。
そして、同じ本質をもった存在同士である。
だから、他者と自分は違わない。
そして、
他者も 全体の一部であると同時に
全体そのものである。
わたしたちは
世界や他者から二分され・分離され・
限定されたものではない。
このこと(わたしたちは同じであること)に気づけば、
「本当の幸せ」が理解できる。
曼荼羅の図柄は、
このことをイメージしている。
外側の状況に余裕のあるとき、
人は幸せでいられるだろう。
だが そうでないとき、
負担が大きくなり「苦」を感じるときも
幸せでいられるだろうか?
相対的な幸せは、
外側の条件や状況に応じて揺れ動くだろう。
それは仕方ないだろう。それはそれでいい。
絶対的な幸せは、内側の状態だ。
それは 外側の条件に左右されない、
もっとも深いところの 心(の座)にある。
絶対的な幸せを感じるためには、
マインドフルネスとともに
心の座に居続ければいい。
(座の上ではなく、座の中の)
絶対的な 無条件の 幸せを見いだしたなら、
外側は嵐であろうと 内側はいつも凪なぎである。
「苦」 を感じながらも 「苦悩」 は存在しない。
余裕がなかろうと、苦しかろうと、
いつも心は穏やかだ。
それが、「絶対的な幸せ」なのだ。
色即是空を突き詰めれば そのことが分かる。
一度 確実に これを見いだしたのなら、
どんなときも 「内側の幸せ」 はなくならない。
未来には何が起こるか分からないし、
それをコントロールすることもできない。
わたしたちには「いま・ここ」しかない。
「いま・ここ」に存在しているという奇跡。
それだけで もう十分ではないか?
それが 「愛・受容・許されている」
「今のままの自分でいい」 ということ。
それが 「絶対的な幸せ」
探していたものは 絶対的な幸せ・安心感。
「それ」は 初めからずっとそこにあった
のに 見つけられなかった。
探しているかぎり、 見つけられないのだ。
「求めて」探す(サンカーラ)のではなく、
ただ 「在る」 こと(あるがまま)に気づく。
求めて 「旅」 に出たが、 見つからなかった。
苦しみ疲れ果て、
傷つき諦めて我が家に戻ったとき、
初めから そこにあったことに気づく。
そして、ありきたりの日々が
どんなに素晴らしいもの(奇跡・驚異)
であったかに気づく。
「いま・ここ」のありきたりの日々が、
時間や空間に束縛されることのない
絶対的なゼロポイントである。
「ゼロ」には、比較がない。
「ゼロ」には、条件もない。
「ゼロ」から すべてが生まれる。
なんでもないものが、 すべてだ。
でも 旅に出たから 「それ」 は見つかった…
では「絶対的な幸せ」を見つけた人類は、
その後も進歩し続けるのだろうか?
どうなる?
おそらく 進歩は止まってしまうのだろう。
だが それが何だと言うのか?
そんなものが
「幸せ」に不可欠なのだろうか?
だが、
工夫・改良し より良き何かを見つけよう・
創りだそうとするのが、
「何かのために」 「ねばならない」という
義務からでなく、
心の底からの欲求によってなされるなら、
それを
「幸せ」と呼んでもいいかも知れない。
そうやって
人類は やはり進み続けるのだろう。
人は やはり
進み続ける生き物なのかも知れない…
では、 そのときの「幸せ」は
いったい どっちの「幸せ」なんだろう?
そんなこと どうでもいい、か…
そして 進もうと止まっていようと、
それも どうでもいい、か…
「相対的な幸せ」は、
「自我:偽のわたし」が 認知する機能によって
「考えて、 判断」するものであり、
判断の元になる「条件」が
満たされたときにだけ成立する。
「絶対的な幸せ」 は、
「本当のわたし」 が ただ 「感じる」 ものであり、
「条件」は 何ひとつ必要ない。
なら、
「いつでも・どこでも幸せ」 な
絶対的な幸せ の方がいい
に決まっているよね!
どうでもいいし、どんなときも大丈夫だ。
(最終改正:2022年2月1日)