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アドラー・岸見・古賀・やすみやすみ
「嫌われる勇気」第五夜
「いまここ」 を踊る(ように生きる)
承認欲求ではない他者貢献 → 共同体感覚
存在レベルの価値とは 関係性(interbeing)
関係性に基づく共同体感覚を持って生きる
人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、
自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。
われわれは 「どう見ているか」 という主観がすべてであり、
自分の主観から逃れることはできず、 多くの人は 自分が見たいように世界を見ています。
(もしくは 見たくない世界を勝手に見て、苦しんでいる)
【すべてはわたしである】
わたし(と呼ばれているもの)は、
わたしの 持って生まれた脳という 個々に異なるニューラルネットワークシステムと、
過去に蓄積された経験という 個々に異なる膨大な学習データ からなる主体と、
状況という客体との相互作用によって、 そのときどきに様々に生じる 流動的な存在である。
それゆえに、 個々人は 想像を超えた異なる存在であることを銘記しておくべきであろう。
だから問題は 世界がどうであるかではなく、 あなたが どうであるかなのです。
【わたししかいない】
あなたは 世界を、そして 自分自身を 直視することができるか。
あなたに その 「勇気」 があるか。
なにが与えられていよう(いなく)とも、 その自分自身を 受け入れられるか?
見返りを求めずに 他者を信じられるか?
承認欲求ではない 他者貢献ができるか?【承認欲求ではない 他者貢献とは何か?】
これは 「勇気と自由」 の問題です。 【 勇気 = 覚悟 = 決意 = 自由意思 】
【 「勇気」 とは、 必要だが 嫌なことを 引き受けようとする 「自由意思」 のことであり、
(エゴが嫌がることを真の自分が引き受ける)
リスクを怖れない心の在り方のことであり、 チャレンジ精神を持ち続けることである。
生きることはチャレンジすることであり、このチャレンジ精神を保ち得なくなったとき、
人は老い、そして 死んでいくのだろう】
第五夜:
いま ここを(ダンスを踊るように) 真剣に(かつ 深刻でなく)生きる
自己受容・他者信頼・他者貢献 の円環構造
哲人 あなたが おっしゃった、
「自意識がブレーキをかけ 無邪気に振る舞うことができない」 という話。
これは、多くの人が実感している悩みかもしれません。
このときの「目的」 はなんでしょうか?
青年 笑われたくない、馬鹿なやつだと思われたくない、その一心ですよ【自己防衛】
哲人 つまり あなたは、 無邪気な自分・
ありのままの自分に 自信を持てていない ということですね?
そして ありのままの自分による対人関係を 回避しようとしている。
きっとあなたも 部屋の中に一人でいれば、
大声で歌ったり、音楽に合わせて 踊ったりできるはずですから。
要するにそれも、対人関係の問題ですよね。
「無邪気な(ありのままの・始めの・本当の)自分」 がいないのではなく、
ただ 人前でそれができない というだけ のこと【鎧を着込んでいるだけ】ですから。
青年 では、どうすれば?
哲人 やはり、共同体感覚です。具体的には
自己への執着(self interest)を 他者への関心(social interest)に切り替え、
共同体感覚を持てるようになること。
そこで必要になるのが、 「自己受容」 と 「他者信頼」 そして 「他者貢献」 の3つになります。
【共同体感覚を身につけるには ヤマアラシのジレンマを乗り越える必要があり、
そのためには 傷つくことを怖れずに、
(ネガティブな部分も含めた)本当の自分をさらけ出す 勇気(チャレンジ)が必要であり、
他者が自分とは違う人間だと理解して 課題を分離することが有効である】
自己受容
哲人 まずは 「自己受容」 から。 始めのころに、
「大切なのは なにが与えられているか(という条件)ではなく、
与えられたものを どう使うかである」という言葉を紹介しました。
てっとり早くいえば 自己受容とは そのこと(ないものを諦め あるものだけでOKとすること)です。
【それだけでなく、 自分の中にある嫌なものを受け入れることも「自己受容」 であり、
(ポジティブ/ネガティブに かかわりなく)
無条件に 自分で自分を承認して生きていくという姿勢のことである。
承認欲求による仮の自己受容には 他者から承認されるという 「条件」 が必要であるが、
同様に 自分で自分を受容・承認するときも
何かができるとか 何々であるという 条件が必要なら、 それを真の自己受容とは呼ばない。
真の自己受容とは、
「無条件」 に 自分で自分自身を「このままでいいのだ」 と受け入れることであり、
つまり 嫌いな・ダメな自分も 「そのまま」 受け入れ、 ない才能を 肯定的に諦めること。
「色即是空」 という真理を体感し、 条件という意味の虚構性を知れば、それが可能になる】
われわれは 自分の中に、捨てることも 交換することもできない 「要素」 を抱えています。
しかし 大切なのは、その 「与えられたものをどう使うか」 です。
「与えられているもの(or 与えられていないもの)」 に執着するのはやめて、
「その使い方」 に焦点を当て、正しく 視座の転換をするのです。
ことさらに ポジティブになって、
できもしないことをできると思い込むような暗示をかけることではありません。
自己受容とは、できないのなら その 「できない自分」 を ありのままに受け入れること。
その上で、 できるようになれる可能性があるなら 努力する。 そして、
それが とうてい不可能なら そこに拘らずに、「できる」部分だけで生きていくのです。
これって ちゃんと考えれば 当たり前のことですよね? なにか 他に方法がありますか?
これが 「肯定的な諦あきらめ」 であり、 これは 「諦あきらかなこと」 です。
いくら 他人が羨ましく見えたところで、 すべてが100% なんてあり得ないし、
欠点のない人間などいません。
羨ましく見えても 本当に幸せかどうかなど 分かりっこありません。
そんなことを 気にする必要はないのです。
われわれは ただ 「与えられたものだけ を使って」 幸せを追求していけばいいのです。
存在している(生きている)ということが
(マインドフルネスにより)途方もない奇跡であると 心から納得できれば、
それだけですべてOKであることが分かり、 それゆえに 自己受容が可能となるだろう。
【存在レベルにある 「わたしの本質」 の理解】
他者信頼
哲人 「自己への執着」 を「他者への関心」 に切り替えるのに必要な 第2の要素は 「他者信頼」 です。
まず「信じる」 という言葉を、信用と信頼に 区別して考えます。
「信用」 とは 条件つきの話なんですね。英語でいうクレジットです。
銀行でお金を借りるときの 「担保」 が、その条件になります。
条件なしに 信用は成立しません。対人関係でも同じく、信用するためには 条件が必要です。
これに対して アドラー心理学では、
「横」 の対人関係は 「信用」 ではなく 「信頼 :トラスト」 によって成り立つと考えます。
「信頼」 とは、 他者を信じるにあたって、 いっさいの条件をつけないことです。
勝手に 無条件に、わたしが あなた(他者)を信じるのです。
もちろん、 裏切られることもあります。借金の保証人のように、損害を被ることもあるでしょう。
それでもなお 信じ続ける態度を「信頼」 と呼ぶのです。
青年 そんなもの、 頭の弱い お人好しじゃないですか?
哲人 だまされて 利用されることだってあるでしょう。
しかし ご自分が裏切った側の立場になって考えてください。
あなたから裏切られてもなお、 無条件に 信じ続けてくれる人がいる。
どんな仕打ちを受けても、信頼してくれる人がいる。
そんな人に対して、 あなたは何度も背信行為を働くことができますか?
信頼の対義語は、懐疑です。
仮にあなたが、対人関係の基礎に 「懐疑」 を置いていたとしましょう。
他者を疑い、友人を疑い、家族や恋人までも疑いながら生きている、と。
【疑っているのは、
自分に 「なにか良い点」 がなければ、 自分が 「特別な何ものか」 でなければ、
自分を 受け入れてもらえない(信頼してもらえない)と思っているから。
であれば、あなたも 他者を信頼できない】
いったい そこから、どんな関係が生まれるでしょうか?
あなたが 疑いの目を向けていることは、 相手も瞬時に察知します。
「この人は わたしのことを信頼していない」 と、直感的に理解します。
そこから なにかしらの前向きな関係が築けると思いますか?
われわれは 無条件の信頼を置くからこそ、深い関係が築けるのです。
青年 ・・・ううむ。
哲人 あなたはいま、
「誰かを無条件に信頼したところで、裏切られるだけだ」 と思っている。
しかし 裏切るのか裏切らないのかを決めるのは、あなたではありません。
それは 他者の課題です。
あなたは ただ「わたしがどうするか」 だけを考えればいいのです。
「相手が裏切らないのなら、 わたしも信じましょう」 というのは、
担保や条件に基づく 信用の関係でしかありません。
青年 そこも 課題の分離だと?
哲人 ええ 課題の分離ができるようになると、 人生は驚くほどシンプルな姿を取り戻します。
もっとも、 課題の分離という原理原則を 理解することは容易であっても、
実践するのは難しい。 そこは認めます。
青年 では、どんなに騙されても信じ続けろ、 ということですね?
哲人 ここは 明確に否定しておきましょう。
アドラーは、 道徳的価値観に基づいて 「無条件の信頼」 を説いているわけではありません。
無条件の信頼とは、 対人関係をよくするため横の関係を築いていくための 手段です。
もしも あなたが、 その人との関係を よくしたいと思わないのなら、
断ち切ってもかまいません。 それは あなたの課題なのですから。
青年 でも 信じ切った相手から裏切られれば、
「他者は敵である」 というライフスタイルにつながってしまうのではないですか?
哲人 あなたは、 裏切られたときのことばかり心配している。
そこで受ける(自分の)傷の痛みにばかり 注目している。 しかし
信頼することを怖れていたら、 結局は 誰とも深い関係を築くことができないのです。
【裏切られたときは その傷の痛みを引き受けるという覚悟を、 あらかじめ持っておく。
痛みが生じたときは悲しめばいいだけであり、 自己受容ができていれば それが可能だ】
青年 では 裏切られることの恐怖を踏み越える勇気は、 いったい どこから出てくるのです?
哲人 自己受容です。
「ありのままの自分」 を受け入れ、 「自分にできること」 と 「自分にはできないこと」
を見極めることさえできれば、 裏切りが他者の課題であることも理解できるし、
他者信頼に踏み出すことも 難しくなくなるでしょう。
【いま 自分には何ができるのか? いまできることをする。 それだけ。 他になにがある?
与えられたもので 今できることを一生懸命する。それが 自己受容できている態度】
青年 裏切られたときの 怒りや 悲しみは どうするのです?
哲人 悲しいときには、 思いっきり悲しめばいいのです。
痛みや悲しみを 避けようとするからこそ、 身動きが取れず、
誰とも深い関係が築けなくなるのですから。
【裏切られる痛み(の可能性)は、深い関係を築くためのコストであると考える】
こう考えてください。われわれには、信じることができます。 疑うこともできます。
そして われわれは、他者を仲間と見なす ことをめざしています。
ならば、信じることと疑うことの どちらを 選択するかは 明らかでしょう。
交換不能な 「このわたし」 を、ありのままに受け入れること。 それが 自己受容です。
そして、 他者に対して無条件の信頼を寄せることが 他者信頼(他者受容)になります。
これができれば 他者を仲間と見なすことができ、共同体感覚を得るための大前提になります。
他者貢献
哲人 そして、共同体感覚を得るためには 3つ目のキーワードである
「他者貢献」 が 必要になってきます。
青年 貢献とは つまり、 自己犠牲の精神を見せて、 周りの人に尽くしなさいと?
哲人 他者貢献が意味するところは、自己犠牲ではありません。
【他者貢献は、 他者の笑顔を 自分が観たいという動機でなされる:人生は 喜ばせっこ】
むしろ アドラーは、 他者のために 自分の人生を犠牲にしてしまう人のことを、
「社会に過度に適応した人」 であるとして、警鐘を鳴らしているくらいです。
【自己犠牲を伴うのは、 「承認欲求」 を基盤として 人生を生きている人たちである。
他者から 「いい子」 「いい人」と 評価してもらうために 自分の本当の欲求を犠牲にして、
他者に尽くしている。 それは 単なる苦行であり、被支配者であるがゆえの犠牲なのだ】
他者貢献とは、 「わたし」 を捨てて 誰かに尽くすことではなく、
むしろ「わたし」 の価値を実感するために こそ、なされるものなのです。
慈善活動に尽力する富豪たちは、 名誉という承認欲求のためだけに、それをしているのでしょうか?
それとも 自らの存在の価値を実感して、 「ここにいてもいいんだ」 と確認するために、
活動しているのでしょうか?
【誰かのために何かをなすとき、違和感なく それが 心から快い・嬉しいと感じられれば、
もしくは、 今ここで 自分がすべきことは 「これである」 という実感があれば、
それは 「他者貢献」 であると言ってよい】
哲人 ここまで、 自己受容・他者信頼・他者貢献という順番で話してきましたが、
この3つは ひとつとして欠かすことのできない、円環構造として結びついています。
ありのままの自分を受け入れる(自己受容)からこそ、
(裏切られようが そうでなかろうが)ありのままの他者を受け入れる(他者信頼)ことができる。
そして、 人々は信頼できる自分の仲間だと思えているからこそ、「他者貢献」 できる。
その他者貢献で わたしは誰かの役に立っていると実感し、 ありのままの自分を受け入れ、
共同体感覚を得ることができる。
この3つの円環構造のスタート地点は、 「ありのままの自分でいいんだ」 という 自己受容」 であり、
マインドフルネスが それを可能にします。
「自分を受容できるこの感覚」 こそ、幸せな人生の基盤なのです。
青年 そして 人生の目標は共同体感覚 というわけですね。 しかし、時間がかかりそうだ。
哲人「自己受容感覚」 とは どんなものか?
そして どうすれば その「感覚」 を得られるのか、まずは 必死になって考えて下さい。
そして ただ 「考えて終わり」 ではなく、
日々の暮らしの実践の中から 実際に その 「感覚」 を学び取って下さい。
人生の調和(いつも 全体を見る) 【全体の中で、 バランスを考える】
哲人 世の中は、善人ばかりではありません。 対人関係の中で 嫌な思いをすることはあるでしょう。
しかし、
攻撃してくる 「その人」 に問題があるだけで、 決して 「みんな」 がそうだというわけではありません。
神経症的なライフスタイルを持った人は、
なにかと 「みんな」 「いつも」 「すべて」 といった言葉を使います。
「みんな 自分を嫌っている」 とか 「いつも 自分だけが損をする」 とか
「すべて 間違っている」 というように。
もし、 あなたが これら一般化の言葉を口癖としているようなら、要注意です。
アドラー心理学では、
こうした生き方のことを 「人生の調和」 を欠いた生き方だと考えます。
物事の一部分だけを見て、全体を判断する生き方です。
【部分しか見ていなくて、 全体が見えていない。
だから 特定の部分の傾向を 勝手に敷衍し、 全体を見ようとせず、
全体がそうであると、 間違った判断をする】
青年 人生の調和?
哲人 ユダヤ教の教えに こんな話があります。
「10人の人がいるとしたら、 そのうち1人は どんなことがあっても あなたを批判する。
10人のうち 2人は、 親友になれる。 残りの7人は、 どちらでもない人々だ」
このとき あなたを嫌う1人に注目するのか。
それとも あなたのことが大好きな 2人に フォーカスをあてるのか。
あるいは、 その他大勢である 7人に注目するのか。
人生の調和を欠いた人は、嫌いな1人だけを見て「世界」 を判断してしまいます。
ところで ワーカホリックの人。この人たちもまた 人生の調和を欠いています。
青年 なぜです?
哲人 ワーカホリックの人は、 人生の 特定の側面【会社で働くこと】だけに注目しています。
彼らは、 仕事を口実に他の責任を回避しようとしています。 本来は、 家事にも、 子育てにも、
あるいは友人との交友や趣味にも、すべて(全体)に関心を寄せるべきであって【それが
social interest】どこかが突出した(偏った)生き方などを アドラーは認めません。
それは、 人生のタスクから目を背けた生き方です。
本来の 「仕事(人生のタスク)」 とは、 会社で働くことだけを指すのではありません。
家庭での仕事、子育て、地域社会への貢献、 趣味、あらゆることが 「仕事」 なのであって、
会社など(生計を立てるための仕事は) ほんの一部に過ぎない。
会社の仕事だけ しか考えないのは、 人生の調和を欠いた生き方です。
存在レベル(の関係性:interbeing)の価値
哲人 そのような人は、
「行為(Doing)」 のレベルでしか 自分の価値を認めることができないでしょう。
これだけのことを「した」 「できる」から 価値があると思っています。
そのような人たちも 【無常の原理により】いずれ 「行為」 不能になるときがきます。
定年退職する、 あるいは 怪我や病気で働けなくなるなど。
すると、「行為」 のレベルでしか価値を認められない人たちは、
深刻なダメージを受けることになります。
【 「行為(Doing)」 のレベルではなく、 「存在(Being)」 のレベルの価値が 関係性】
人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれない(自分の価値を実感できない)ことです。
では、どうしたら 好きになれるのか?
アドラーは、(自己犠牲の承認欲求でなく)「わたしの存在は 共同体にとって有益である」
「わたし(の存在)は 誰かの役に立っている」 という思いだけが自らの価値を実感させる と答えます。
【これは単に、 「行為」 のレベルでだけ役に立っているということではない。
そうでなく、 「存在」 のレベルでも 役に立っていると思えるか?
存在レベルの貢献感とは、互いが 「関係性」 に価値を見出せているか、どうか?
他者が 互いの関係性に価値を認めるのは 他者の課題なので、
要は 「わたし」 が 「関係性そのもの」 に 価値を見出せているか、どうか?
「わたし」 が 他者の 「存在そのもの」 に 価値を見出せるか?
居てくれて嬉しい と感じられるか? 他者の喜びを 共に喜べるか?
そのような関係性を築くことができるか、 どうか?
そのような感覚をいつも持っていることができれば、自分を好きになれるだろう。
自分が 他者のことを好きだと思えているとき、 自分のことも 好きになれるし、
他者の役にも 立っている。
「承認される」 ことを目的に 他者の役に立とうとするのではなくて、
「関係性」 そのものを目的として 他者の役に立とうとする。 それが 貢献感につながる】
以前に、承認欲求の話をしました。いまや 人が承認を求める理由は明らかでしょう。
人は自分を好きになりたい、自分には価値があるのだと思いたい。【自己受容したい。
つまり存在レベルで自分の価値を認めたい】
そのために、「わたしは 誰かの役に立っている」 という貢献感が欲しい。 そして、
貢献感を得るための 安易な手段として、(行為doingによって)他者からの承認を求めているのです。
しかし 貢献感を得るために承認欲求を利用すると、結局は 他者の望む人生を歩まざるを得ません。
承認欲求を通じて得られた貢献感には 自由がない。「わたし」 を犠牲にしている。
わたしは どうしたいのか(わたしの 本当の欲求)が忘れられている。
われわれは自由を選び(自分のしたいことをし)ながら、なおかつ
(対人関係の)幸福をめざす存在なのです。
【わたしの欲求(課題)と 他者の欲求(課題)を分離しつつ、関係を築き上げる。
そのために他者のありのままを受け入れて、 関心(interest)を持って 理解しようとする】
もし、本当の貢献感が 持てているのなら、他者からの承認は いらなくなります。
わざわざ 他者から認めてもらうまでもなく、 「わたしは誰かの役に立っている」 と
(自分で)実感できているのですから。
その貢献感を導くものは、
他者を 「愛する」 ことができている【いつも誰かを喜ばせたいと思っている】という確たる実感です。
【できれば 好ましいと思う 「特定の人」 だけでなく、 すべての人とすべての存在を愛する】
他者を愛せるためには、もちろん 自分自身を愛せていなくてはなりません。
【すべての大元は自己受容できていること】
「愛」 こそが幸福の大元おおもとであるということが、 お分かりいただけたでしょうか?
【自己受容のために 誰かの役に立とうとするのではなく、
自己受容できていれば 自然な感じで 誰かの役に立てている】
つまり 自分を愛すること【自己受容】から すべてが始まるのです。
【自己受容できてさえいれば、 他者から 「嫌われても」 怖くないだろう】
いまここを 踊るように かつ真剣に生きる
青年 この世に生を受けたからには、大事業を成し遂げ、
わたしが 「何ものかである」 との証明が必要でしょう。
それが自己実現というものではないですか?
【真の 自己実現とは、 「自分は何ものでもない」 ことを知り、 「自分自身」 になること】
哲人 なぜ 特別になる必要があるのですか?
それは、 普通の自分が受け入れられていないからでしょう。
【普通であることの 勇気を持てていない】
しかし、 普通であること・平凡であることは、 本当によくないことですか?
なにか 劣ったことですか? じつは 誰もが普通なのではないですか?
普通であることは無能なのではありません。
わざわざ 自分の優越性を誇示する必要などないのです。
あなたのいう自己実現とは、登山の山頂のようなものですか?
もし 人生が 登山のようなものだとしたら、 人生の大半は途上ということになります。
山頂を仮りの目標と決めてもかまいませんが、その場合 大事なのは 「目標」 ではなく、
その 「過程」 ではないですか?
われわれは、 「いま、 ここ」 にしか生きることができません。
人生とは、 いま この瞬間を くるくると ダンスするように生きる、
連続する刹那(瞬間瞬間の過程)なのです。
そして ふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」 と気づかされる。
ダンスにおいては 踊ることそれ自体が目的であって、
どこかに到達しようとは思わないでしょう。 「目的地」 は存在しない のです。
「いま、 ここ」 に スポットライトを当てる というのは、
いまできることを 真剣 かつ丁寧に やっていくことです。 それが ダンスです。
深刻になっては いけません。
真剣である(結果ではなく過程を重視する)ことと、
深刻である(目的という 結果を求める) ことを、取り違えないでください。
【これは、目的論という考え方とは別の視点である】
もしも、わたしが 「いま、 ここ」 を真剣に 生きていたとしたなら、
その刹那は 常に完結したものになります。
たとえ 「いま、 ここ」 で生を終えたとしても、 それは不幸ではありません。
20歳で終わった生も、90歳で終えた生も、 いずれも 完結した生であり、
幸福なる生なのです【それが分かれば 死は恐ろしいものではなくなり、
自己受容もできるようになるだろう】
人生における最大の嘘、 それは 「いま、 ここ」を生きていないことです。
あなたは これまで、
「いま、 ここ」 から目を背け、 ありもしない過去と未来ばかりに 光を当ててきた。
自分の人生に、かけがえのない刹那に、 大いなる嘘をついてきた。
【 いまここには、快もあるが 不快もある。 どちらも受け取る覚悟で いまここを生きる】
さあ 人生の嘘を振り払って、
怖れることなく、 いまここに強烈なスポットライトを当てなさい。
あなたには、それができます。
人生の意味
青年 では、 人生の意味とはなんなのですか?
哲人 アドラーの答えは、「普遍的な『人生の意味』はない」というものです。
われわれの住む世界には、理不尽な出来事が隣り合わせで存在しています。この世は、
身も蓋もない不条理といってよいでしょう。
だからといって、 そのような不条理を ただ肯定してしまっていいのか?
あなたは それに対して、どう立ち向かうのですか?【どう生きるのか?】 われわれは、
困難に見舞われたとき にこそ 前を見て 「ここから 何ができるのか?」 を考えるべきです。
アドラーは、「普遍的な人生の意味はない」 と語ったあと、こう続けています。
「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。
人生一般には、意味など ない。
しかし、 あなたは その人生に意味を与えることができる。
あなたの人生に 意味を与えられるのは、 他ならぬ あなただけなのだ。
【人生に、 完璧に正しい 「正解」 などはない。
正解を決めることができるのは、 あなた 自身だけである。
あなたが正解だと思うこと、 それが正解だ】
導きの星(言葉)
人が自由を選ぼうとしたとき、自由であるがゆえに 道に迷うことは 当然あるでしょう。
そのときの 「導きの星」 は、 他者貢献(愛:関係性)です。
そして、「いま、ここ」 を 真剣にダンスするように生きましょう。
誰かと競争する 必要もなく、 目的地もいりません。
踊っていれば どこかにたどり着くでしょう。
【私の 導きの星となるキーワードは、
「同じでないが対等」意識:横の関係
人の要素はみな違っていて 当たり前
存在と全体としての本質は みな同じ
なにものかであるものは なにもなく
わたしも 何者でもない
上手くいかないことも含めて 味わい
楽しんで、人生そのものを愛する
課題の分離 存在と全体性 自己受容
「エゴの承認欲求」 ではなく
「真の自分の欲求」 を大切にする
人生は 喜ばせっこ
概念的な 「善」 を相対化したあとに残る
人生の指標は
理解に裏打ちされた 感覚としての 「愛」
「思いやり:愛」 という名の 他者貢献
他者への関心(social interest) とケア
謙虚さ・感謝と尊敬
マインドフルネスによって
すぐに 反応 する人から 観る 人になる
わたしは、 いつの日か かならず死ぬ
最良の別れの日のためにメメント・モリ】
哲人 わたしは 長年 アドラーの思想とともに生きてきて、 ひとつ 気がついたことがあります。
それは、 「わたしの力は 計り知れないほど大きい」 ということです。
「わたし」 が 変われば、「世界」 が 変わってしまう。
世界とは 他の誰かが変えてくれるものではなく、 ただ 「わたし」 によってしか 変わり得ない。
アドラー心理学を知ったわたしの目に映る世界は、 もはやかつての世界ではありません。
誰かが、 始めなければならない。 わたしが、 そして あなたが、 始めるべきです。
青年 世界は シンプルであり、 人生も また 同じなのですね。
第五夜のまとめ:人生のダンスを踊る
共同体感覚(愛)のためには、 自己受容・他者信頼・他者貢献の 3つが 必要。
ありのままの自分を受け入れる【自己受容】からこそ、
(裏切られようが そうでなかろうが)ありのままの他者を 受け入れ【他者信頼 他者受容】
わたしとあなたを受け入れることができる。
そして、 人々は自分の仲間だ と思えているからこそ、[他者貢献]できる。
存在として 関係性を通して貢献(愛)する。
その他者貢献(感)で「誰かの役に立っている」 という実感が共同体感覚となり、
ありのままの自分の受け入れが可能になる。
この三つは互いに関連し 循環している。
他者貢献は 関係性(愛)によってなされ、
「わたしは このままでいいのだという 自己受容」 が 三つの循環のスタートとなっている。
そして 特別な誰かなど どこにも存在せず、 わたしもあなたも みんな普通であり 同じ
であると同時に、とても違っているという深い認識が「全ての受容」 のスタートになる。
そして 与えられたものだけを使って、人生のピクニックを楽しみ、
人生のダンスを踊りながら 人生を味わい、 「いま ここ」 を(結果を期待せずに)淡々と、
そして、 (深刻ではなく)真剣に生きる。
一生懸命(無理せず、適切に)頑張って、 今いる この場所で、「咲く」
確実に訪れる死の その日まで。 安らかに 死を受け入れるために。
人生一般には 意味などない。 しかし、 人は 意味なしで生きることなどできない。
自分の人生に 意味を与えることができる のは、 自分だけだ。
意味を与えるために、与えられたものだけを使ってダンスし、 自分だけの答えを探し、
世界の一員となって、共同体感覚を持とう。