「嫌われる勇気」第五夜:「いまここ」を踊る | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

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アドラー・岸見・古賀

嫌われる勇気」第五夜  

  

いまここを踊る(ように生きる)


  承認欲求ではない他者貢献   共同体感覚

  存在レベルの価値とは 関係性(interbeing)

   関係性基づく 共同体感覚を持って生きる



  人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、

  自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます

  われわれは「どう見ているか」という主観がすべてであり、

  自分の主観から逃れることはできず、 多くの人は 自分が見たいように世界を見ています

(もしくは 見たくない世界を勝手に見て、苦しんでいる)

【すべてはわたしである】


  だから 問題世界がどうであるかではなく、  あなたがどうであるかなのです

わたししかいない】 

 あなたは 世界を、そして 自分自身を  直視することができるか。

  あなたにその「勇気があるか


  これは勇気の問題です

【 勇気  =  覚悟  =  決意 


  なに与えられていようとも、 その自分自身を受け入れられるか? 

  見返りを求めることなく、     他者を信じられるか? 

  承認欲求ではない  他者貢献ができるか 

【承認欲求ではない 他者貢献とは何か?】

 

 

第五夜:

  いま、 ここ (ダンスを踊るように)

   真剣に(かつ深刻でなく)生きる

 


哲人 あなたが おっしゃった、

自意識がブレーキをかけ 無邪気に振る舞うことができない」という話。

  これは、多くの人が実感している悩みかもしれません。

  このときの「目的」はなんでしょうか?

青年 笑われたくない馬鹿なやつだと思われたくない、その一心ですよ自己防衛

哲人 つまり  あなたは、 無邪気な自分

  ありのままの自分に 自信を持てていない   ということですね? 

  そして ありのままの自分による対人関係を 回避しようとしている

  きっとあなたも 部屋の中に一人でいれば、  大声で歌ったり、

  音楽に合わせて 踊ったりできるはずです  から。

  要するにそれも、対人関係の問題ですよね。  「無邪気ありのままな自分」いないのではなく、

  ただ  人前でそれができない  というだけ  のことですから。

青年 では、どうすれば?


哲人 やはり、共同体感覚です。具体的には

  自己への執着(self interest)を 他者への関心(social interest)に切り替え、

  共同体感覚を持てるようになること。

  そこで必要になるのが、 自己受容 他者信頼 そして 「他者貢献」 の3つになります。

 


自己受容


哲人 まずは 「自己受容」 から。 始めのころに、

大切なのは なにが与えられているか(という条件)ではなく

  与えられたものを どう使うかであるという言葉を紹介しました。

  てっとり早くいえば、「自己受容とは      そのことないものを諦めることです

【それだけでなく、 自分の中にある嫌なものを受け入れることも   「自己受容」 である】


無条件自己承認して 生きていくという姿勢。

  承認欲求による自己受容  他者から承認されるという 「条件」 が必要である。

  さらに 自分で自分を承認するときも 何かができるとか何々であるという 条件 が必要なら

  それを 自己受容とは呼ばない


  真の自己受容とは

無条件」 に 自分で自分自身を「このままでいいのだ」 と受け入れることであり、 

  つまり  嫌いなダメな自分を 「そのまま」  受け入れること・ない才能を 肯定的に諦めること

色即是空」 という真理を体感すれば、 それが可能になる


  われわれは 自分の中に、捨てることも 交換することもできない要素を抱えています。

  しかし 大切なのは、 その 「与えられたものをどう使うか」です。

与えられているもの 執着するのはやめて、 「その使い方」 に 焦点を当てるのです。

  正しい 視座の転換をするのです。

  ことさらに ポジティブになって、

  できもしないことをできると思い込むような暗示をかけることではありません。

  自己受容とは できないのなら そのできない自分」 ありのままに受け入れること

  その上で、 できるようになれる  可能性があるなら 努力する

  それが とうてい不可能なら そこにこだわらずに、「できる部分で生きていくのです。


  これって、 ちゃんと考えれば 当たり前のこと  ですよね? 

  他の方法がありますか? これが「肯定的なあきらめ」です。「あきらかなこと」です。

  いくら 他人が羨ましく見えたところで、   すべてが100% なんて  あり得ないし、

  欠点のない人間など   いません。

  羨ましく見えても、 本当に幸せかどうかなど  分かりっこありません。

  そんなことを 気にする必要はないのです。

  われわれはただ 「与えられたものを使って」  幸せを追求していけばいいのです。

 

  ニーバーの祈りと呼ばれる言葉があります。

 「神よ、願わくば私に

   変えることのできるものを変える勇気と

   変えることのできないものを受け入れる  平静さと

   その違いを見分ける智慧を、授けたまえ」

 


他者信頼


哲人 「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えるのに必要な 第2の要素は  「他者信頼」です。

  まず「信じる」 という言葉を、信用と信頼に  区別して考えます。

  信用とは 条件つきの話なんですね。         英語でいうクレジットです。

  銀行でお金を借りるときの「担保」が、   その条件になります。

  条件なしに 信用は成立しません。対人関係でも同じく、信用するためには条件が必要です。


  これに対してアドラー心理学では、

」 の対人関係は 「信用」 ではなく 「信頼」  によって成り立つと考えます。

信頼」 とは、 他者を信じるにあたって、   いっさいの条件をつけないことです。

  勝手に 無条件にわたしが あなた(他者)を信じるのです。

  もちろん、裏切られることもあります。

  借金の保証人のように、 損害を被ることもあるでしょう。

  それでもなお 信じ続ける態度を「信頼」 と  呼ぶのです。


青年 そんなもの、   頭の弱い  お人好し じゃないですか?

哲人 だまされて 利用されることだって  あるでしょう

  しかし ご自分が裏切った側の立場になって考えてください。

  あなたから裏切られてもなお、 無条件に  信じ続けてくれる人がいる。

  どんな仕打ちを受けても、信頼してくれる人がいる。

  そんな人に対して、 あなた何度も背信行為を働くことができますか?

  信頼の対義語は懐疑です

  仮にあなたが、対人関係の基礎に 「懐疑」 を置いていたとしましょう。

  他者を疑い、友人を疑い、家族や恋人までも疑いながら生きている、と。


疑っているというのは、  自分に  「なにか良い点」 がなければ

  自分 特別ななにものか なければ、 自分を受け入れてもらえないだろう

(信頼してもらえないだろうと思っているから、  あなたも 他者を信頼できないということ】


  いったい そこから、どんな関係が生まれるでしょうか?

   あなたが 疑いの目を向けていることは、  相手も瞬時に察知します。

「この人は わたしのことを信頼していない」  と、直感的に理解します。

  そこから なにかしら前向きな関係築けると思いますか? 

  われわれは 無条件の信頼を置くからこそ深い関係が築けるのです。

青年 ・・・ううむ。

哲人 あなたはいま、

「誰かを 無条件に信頼したところで、       裏切られるだけだ」と思っている。

  しかし、   裏切るのか  裏切らないのかを  決めるのは、あなたではありません。

  それは他者の課題です。  あなたは ただ、  「わたしがどうするか」 だけを  考えれば    いいのです。

「相手が 裏切らないのなら、    わたしも   信じましょう」というのは、

  担保や条件に基づく 信用の関係でしか     ありません。


青年 そこも 課題の分離だと?

哲人 ええ、 課題の分離ができるようになると  人生驚くほどシンプルな姿取り戻します

  もっとも、課題の分離という  原理原則   理解することは容易であっても、

  実践するのは難しい。そこは認めます。

青年 では、どんなに騙されても信じ続けろ、  ということですね?

哲人 ここは 明確に否定しておきましょう。

  アドラーは、 道徳的価値観基づいて 「無条件の信頼」説いているわけではありません。

  無条件の信頼とは、 対人関係よくするため横の関係を築いていくための   手段 です

  もし あなたが、 その人との関係よくしたいと思わないのなら、

  断ち切ってもかまいません。 それあなたの課題なのですから。


青年 でも 信じ切った相手から裏切られれば、  「他者は敵である」という

  ライフスタイルに つながってしまうのではないですか?

哲人 あなた「裏切られたとき」ことばかり心配している。

  そこで受ける(自分の)傷の痛みにばかり  注目している。しかし 

  信頼することを怖れていたら、 結局は 誰とも深い関係を築くことができないのです。


【裏切られたときは  その「不快感」を 引き受けるという覚悟を、 あらかじめ持っておく

  自己受容ができていれば、 それが可能だ】


青年 では 裏切られることの恐怖を踏み越える勇気は、 いったい どこから出てくるのです?

哲人 自己受容です

  ありのままの自分を 受け入れ、     「自分にできること」 と 「自分にはできないこと」

  を見極めることさえできれば、 裏切りが   他者の課題であることも理解できるし、

  他者信頼に踏み出すことも 難しくなくなるでしょう。


いま自分には何ができるのかいまできることをするそれだけ。 他になにがある? 

  与えられたもので 一生懸命生きるそれが  自己受容


青年 裏切られたときの   怒りや 悲しみは   どうするのです?

哲人 悲しいときには 思いっきり悲しめばいいのです。

  痛みや悲しみを避けようとするからこそ、  身動きが取れず、

  誰とも深い関係が築けなくなるのですから。

【嫌われる痛み(の可能性)は、深い関係を築くためのコストである】

  こう考えてください。   われわれには、   信じることできます。   疑うことできます。

  そして われわれは、他者を仲間と見なす  ことをめざしています

  ならば、信じることと疑うことの どちらを  選択するかは 明らかでしょう。


  交換不能な 「このわたし」 ありのままに受け入れること。  それが 自己受容です。

  そして、 他者に対して無条件の信頼寄せること  「他者信頼(他者受容)」 になります。

  これができれば、 他者を仲間と見なすことができ、

  共同体感覚を得るための 大前提になります。

 


他者貢献


哲人 そして、共同体感覚を得るためには     3つ目のキーワードである

他者貢献」 が 必要になってきます。

青年 貢献とはつまり、自己犠牲の精神見せて、  周りの人に尽くしなさいと?

哲人 他者貢献が意味するところは、自己犠牲ではありません

  むしろ アドラーは、 他者のために  自分の人生を犠牲にしてしまう人のことを

社会に過度に適応した人」であるとして、警鐘を鳴らしているくらいです。


【それは、「承認欲求」を基盤として  人生を生きている人のことである。

  他者から 「いい子」  「いい人」と 評価してもらうために、

  自分の本当の欲求を 犠牲にして、   他者に尽くしている】


  他者貢献とは、 「わたし」 を捨てて  誰かに尽くすことではなく

  むしろ「わたし」 の価値を実感するために  こそ、なされるものなのです。

  慈善活動尽力する富豪たちは、 「名誉」 という

「承認欲求」のために   それをしているのでしょうか? 

  それとも 自らの存在の価値を実感して、   「ここにいてもいいんだ」 と確認するために、

  活動しているのでしょうか?


【誰かのために何かをなすとき、違和感なく それが 心から心地よいと感じられていれば、

  もしくは、  今ここで  私がすべきことは   「これである」 という実感があれば

  それは「他者貢献」である、と言ってよいだろう】


哲人 ここまで、 自己受容他者信頼他者貢献という順番で話してきましたが、

  この3つ ひとつとして欠かすことのできない、  いわば 円環構造として  結びついています

  ありのままの自分受け入れる(自己受容)からこそ、(裏切られようが、そうでなかろうが

  ありのままの他者受け入れる(他者信頼)ことができる。

  そして 人々は信頼できる自分の仲間だと   思えているからこそ、「他者貢献」できる。

  その他者貢献で、 わたし誰かの役に立っていると実感し、 ありのままの自分受け入れ、  共同体感覚を得ることができる。

  

  この3つの円環構造のスタート地点は

ありのままの自分でいいんだ」 という    「自己受容 であり、 サティが それを可能にします。

自分を受容できる感覚こそ幸せな人生の基盤なのです

青年 そして、 人生の目標共同体感覚だというわけですね。しかし、時間がかかりそうだ。

哲人自己受容感覚とは どんなものか? 

  そして どうすれば その「感覚」を得られるのか、必死になって考えて下さい。

  さらに ただ考えるのでなく、 日々の暮らし実践中から その 「感覚」学び取って下さい

 


人生の調和(いつも 全体を見る)


哲人 世の中は、善人ばかりではありません。

  対人関係のなかで イヤな思いをすることはあるでしょう。

  しかし、攻撃してくる「その人」に問題があるだけで、

  決して「みんな」がそうだというわけではありません。

  神経症的なライフスタイルを持った人は

  なにかと「みんな」  「いつも」  「すべてといった言葉を使います

「みんな自分を嫌っている」 とか 「いつも自分だけが損をする」 とか 「すべて間違っている」  というように。

  もし、 あなたが これら一般化の言葉を口癖としているようなら、要注意です。

  アドラー心理学では、

  こうした生き方のことを「人生の調和を欠いた生き方だと考えます。

  物事の一部分だけを見て全体を判断する生き方です。


【部分しか見ていなくて、 全体見えていない

  だから  特定の部分の傾向を 勝手に敷衍し、   全体を見ようとせず

  全体がそうであると 間違った判断をする


青年 人生の調和?

哲人 ユダヤ教の教えに こんな話があります。

「10人の人がいるとしたら、 そのうち1人は  どんなことがあっても あなたを批判する。

  10人のうち 2人は、 親友になれる。  残りの7人は、 どちらでもない人々だ」

  このとき、 あなた嫌う1人に注目するのか。

  それとも あなたのことが大好きな 2人に   フォーカスをあてるのか。

  あるいは、 その他大勢である 7人に注目するのか。

  人生の調和を欠いた人は、嫌いな1人だけを見て「世界」を判断してしまいます。


  ところで ワーカホリックの人この人たちもまた 人生の調和を欠いています

青年 なぜです?

哲人 ワーカホリックの人は、 人生の 特定の側面だけに注目しています

  彼らは、 仕事を口実他の責任を回避しようとしています。 本来は家事にも子育てにも

  あるいは友人との交友や趣味にも、すべて(全体)に関心を寄せるべきであって、

  どこかが突出した生き方などを アドラーは認めません

  それは、  人生のタスクから 目を背けた   生き方です。

  本来の 「仕事」 とは、会社で働くことだけを指すのではありません。

  家庭での仕事、子育て、地域社会への貢献、  趣味、あらゆることが 仕事 なのであって

  会社など  ほんの一部に過ぎない

  会社の仕事だけ  しか考えないのは、 人生の調和を欠いた生き方です。



存在レベルの価値(関係性)


哲人 そのような人は、

行為(自我)」 のレベルでしか 自分の価値を認めることができないでしょう。

  これだけのことを「した」  「できる」から  価値があると思っています。

  そのような人たちも、いずれ「行為不能になるときがきます【無常】

  定年退職する、 あるいは 怪我や病気で働けなくなるなど。すると、

行為のレベルでしか 価値を認められない人たちは深刻なダメージを受けることになります

【 「行為 レベルではなく、 「存在 レベルの価値とは関係性そのもの


  人間にとって最大の不幸は、  自分を好きになれない価値を実感できない ことです。

  では、どうしたら 好きになれるのか? 

  アドラーは、(自己犠牲承認欲求ではなく)「わたしは共同体にとって有益である」

わたしは誰かの役に立っている という思いだけが自らの価値を実感させる、 と答えます。


【これは単に、「行為のレベルでだけ役に立っているということではない。

  そうでなく、   「存在のレベルでも、 役に立っていると思えるか? 

  存在レベルの貢献感とは、互いが 「関係性」  に価値を見出せているか、どうか? 


  他者が  互いの関係性に価値を認めるのは  他者の課題なので、

  要は「わたし」 が 関係性そのものに 価値を見出せているか、どうか?

わたしが  他者の存在そのものに   価値を見出せるか? 

  居てくれて嬉しいと感じられるか他者の喜びを共に喜べるか? 

  そのような関係性を築くことができるか、  どうか?  


  そのような感覚をいつも持っていることができれば、自分を好きになれる。 

  自分他者のこと好きだと思えているとき   自分のことも 好きになれる

  他者の役にも 立っている

承認されることを目的に       他者の役に立とうとするのではなくて

関係性そのものを目的として 他者の役に立とうとする。 それが 貢献感につながる


  以前に、承認欲求の話をしました。いまや 人が承認を求める理由は明らかでしょう。

  人は自分を好きになりたい自分には価値があるのだと思いたい

  そのため「わたし誰か役に立っている」   という貢献感が欲しい

  そして 貢献感を得るための安易な手段として、  他者からの承認を求めているのです。

  しかし、 貢献感を得るために 承認欲求を  利用すると、

  結局他者の望む人生歩まざるを得ません。

  承認欲求を通じて  得られた貢献感には、   自由がない。「わたしを犠牲にしている

  わたしは どうしたいのか(わたしの 本当の欲求)が忘れられている

  われわれは 自由を選び(自分のしたいことをし)ながらなおかつ

対人関係幸福をめざす存在なのです


わたしの欲求(課題)と 他者の欲求(課題)を分離しつつ関係を築き上げる

  他者の ありのままを 受け入れる  関心を持って 理解しようとする


  もし、本当の貢献感が 持てているのなら他者からの承認は いらなくなります

  わざわざ 他者から認めてもらうまでもなく、  「わたしは誰かの役に立っている」 と

自分で)実感できているのですから

  その貢献感を導くものは、他者を「愛する」  ことができている という確たる実感です。

  他者を愛せるためには、もちろん 自分自身を愛せていなくてはなりません

【自己受容 → 他者貢献】


」こそ   幸福の 大元おおもとである  ということが、 お分かりいただけたでしょうか?

 


いまここを 踊るように かつ真剣に生きる


青年 この世に生を受けたからには、大事業を成し遂げ、わたしが「何ものかである」  との証明が必要でしょう。それが 自己実現というものではないですか?

【 「自己実現とは、 「自分は何ものでもない」 ことを知り、 「自分自身になること

哲人 なぜ 「特別 になる必要があるのですか? 

  それは、「普通 自分が   受け入れられていないからでしょう

【普通であることの  勇気を持てていない】

  しかし普通であること平凡であることは、  本当によくないことですか? 

  なにか 劣ったことですか?  じつは 誰もが普通なのではないですか

  普通であること 無能なのではありません。

  わざわざ 自分の優越性を誇示する必要などないのです。


  あなたのいう自己実現とは、登山の山頂のようなものですか? 

  もし 人生が  登山のようなものだとしたら、  人生の大半「途上」 ということになります。

  山頂「仮りの目標決めてかまいませんが、その場合 大事なのは目標ではなく

  その 「過程」 ではないですか? 

  われわれは いま ここ にしか生きることができません

  人生とは いま この瞬間くるくるダンスするように生きる、 連続する刹那なのです。

  そして ふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」 と気づかされる。

  ダンスにおいては、 踊ることそれ自体目的であって、

  どこかに到達しようとは思わないでしょう。

目的地は存在しない のです。

いま、 ここ」 に スポットライトを当てる  というのは

  いまできることを  真剣 かつ丁寧に やっていくことです。   それが ダンスです。    

  深刻になっては いけません。

  真剣である(結果を求めない)ことと、       深刻である結果を求める)ことを   取り違えないでください。


  もしも、わたしが 「いま、 ここ」 を真剣に  生きていたとしたなら、

  その刹那つねに完結したものになります。

  たとえ 「いま、 ここ」生を終えたしても、  それは不幸ではありません。

  20歳で終わった生も、 90歳で終えた生も、  いずれも 完結した生であり 幸福なる生なのです。

【それが 分かれば「死」 は恐ろしいものでは  なくなる】


  人生における最大の嘘、 それ 「いま、 ここを生きていないことです。

  あなたは これまで

いま、 ここ」 から目を背け、 ありもしない過去と未来ばかりに 光を当ててきた

  自分の人生に、かけがえのない刹那に、   大いなる嘘をついてきた。

【 「いまここ」 には 「快」 もあるが 「不快」 もある       どちらも受け取る覚悟で           「いまここ」 を生きる

  さあ 人生の嘘を振り払って、

  怖れることなく  「いまここに  強烈なスポットライトを当てなさい

  あなたには、それができます。


青年 では、 人生の意味とはなんなのですか

哲人 アドラーの答えは、「普遍的な人生の意味はない」というものです。

  われわれの住む世界には、理不尽な出来事が隣り合わせで存在していますこの世は

  身も蓋もない不条理といってよいでしょう。

  だからといって、 そのような不条理を ただ肯定してしまっていいのか? 

  あなたは それに対して、どう立ち向かう  のです?  われわれは、

  困難に見舞われたとき にこそ 前を見て   「ここから 何ができるのか?」 を考えるべきです。

  アドラーは、「普遍的な人生の意味はない」  と語ったあと、こう続けています。

人生の意味はあなたが自分自身に与えるものだ」と。

  人生一般には意味などない。 しかし、 あなたは その人生に  意味を与えることができる

  あなたの人生に   意味を与えられるのは、  他ならぬ あなただけなのだ


人生に、 完璧に正しい 正解 などはない

  正解を決めることができるのは、  あなた  自身だけである。

  あなたが正解だと思うこと それが正解だ


  人自由を選ぼうとしたとき、 道に迷うことは当然あるでしょう。

  そのときの 「導きの星」 、         他者貢献関係性)です。

  そして、「いま、ここ」 を 真剣にダンスするように生きましょう

  誰かと競争する 必要もなく目的地もいりません

  踊っていれば どこかたどり着くでしょう。


【導きの星となるキーワードは、         

 

思いやりという名の 他者貢献

                      横の関係

      他者への関心(social interest)

       「同じでないが 対等意識

             謙虚さ感謝尊敬

   課題の分離  存在全体性  自己受容


           「承認欲求ではなく

     「自分の欲求を大切にすること


「すぐに反応する」 から 「観る人になる」 へ

   他人は 私のことなど 気にかけてはいない


   わたしは いつの日か かならず死ぬのだ、

   だからメメントモリ、 安らかな死のために

 

哲人 わたしは 長年 アドラーの思想とともに  生きてきて、 ひとつ気ついたことがあります。

  それは、「わたしの力  計り知れないほど  大きい」ということです。

わたし が 変われば、「世界」 が 変わってしまう

  世界とは他の誰かが 変えてくれるものではなく、   ただ 「わたし によってしか   変わり得ない

  アドラー心理学を知った わたしの目に映る世界は、 もはや かつての世界ではありません。

  誰かが 始めなければならない。 わたしが  そして あなたが、 始めるべきです

青年 世界は  シンプルであり、  人生も また  同じなのですね。

 


第五夜のまとめ:人生のダンスを踊る


  共同体感覚のためには、 自己受容他者信頼他者貢献の 3つが 必要。

  ありのままの自分受け入れる自己受容からこそ、 (裏切られよう そうでなかろう)ありのままの他者を 受け入れる他者信頼(他者受容)】  ことができる。 

  そして  人々は  自分の仲間だと思えているからこそ他者貢献】  できる

  存在として、 関係性を通して貢献する


  その他者貢献(感)によって、

「わたしは誰かの役に立っている」 と実感し、

  ありのままの自分 受け入れることができる。

  というよりは、受け入れることができれば    必然的に  他者貢献(愛)が成立している


  他者貢献とは関係性のことであり

  まず「このままでいいんだ という受容がスタートとなる

特別な誰かなど どこにも存在せず、 わたしあなた みんな普通であり同じ

  という認識が「受容のスタートになる


  そして  与えられたものを使って、  人生のピクニックを楽しみ、

  人生のダンスを踊りながら 人生を味わい、「いまここ

(結果を期待せずに)淡々と、 そして(深刻ではなく)真剣に生きる

  今いる この場所で、   一生懸命(かつ無理しないで)頑張って、「咲く

  確実に訪れる死の その日まで。  安らかに  死を受け入れるために


  人生一般には  意味などない。   しかし、  人は  意味なしで生きることなどできない

  自分の人生に 意味を与えることができる  のは、  自分だけだ

  意味を与えるために、与えられたものだけを使ってダンスし、 自分だけの答えを探そう。




(最終改訂:2023年1月20日)