タイムライン見てて年収200万が〇〇とか
普通400万くらいは〇〇とか見たから
つい思うところあって書くことにした。

まず、平均値と最頻値と中央値は違う。
特に、最頻値と平均値の乖離が大きい
極端に歪なグラフ、要するに正規分布から
大きく逸脱している場合、
正直何でも平均でモノを語るのは
やめた方がいいとすら思う。
まぁ露骨に所得の話とかね。

所得に関しては世代間差も未だに大きいため、
例えば恋愛とか結婚みたいな、
所得が条件や基準に入れられがちな若いうちは
より"平均"から離れてしまうと考える。

まぁ、個人的なことを言えば
人のことなんて知らねーよって
話になってしまうけれど。
自分は自分、人は人。

うちはうち、他所は他所と
よく世間の母は言うものだが、
これもまた都合良く使われてるな、
と思わないでもない。
模倣したくない事象はよそはよそ、
模倣したい時は少しはあの家を見習いなさい、と来る。

まぁ人との繋がり含め、
何もかもが適度という曖昧な基準から
避けられないのだということか。
しかも人によってその尺度は異なる。
人が分かり合えない理由だね。
奇跡的に適度センサーで
多くの部分を同じくするか、
一方の忍耐を強いるか、
それくらいのことがなければ
深層的人間関係というのは成立しないのだろう。

だから人は好きに生きて、
どこかで価値観(という言葉もよく使われるよね)を
ある程度共に出来そうな人が
幸運にも見つかればラッキー程度で
恋愛も友達付き合いもしていく、
それくらいのスタンスがよかろう。

え、自分?
今のとこはそんな人が居ないだけ、
あと5年か20年か知らんけど
現れなかったら運が悪かった、それだけ。

かたや世の中では
一方に無理やり忍耐を強いても成立するだけの
関係性が築かれることもある。
連れていることのステータス感含め、
相手の容姿や年収といった副次的な要素への
妥協などが主な要因だろう。
基本的にはそれを獲得して
周りにどんどんそれを強いていけた者が
成功者のように捉えられる節もある。

自分は自分でしかない、
自らのキャパシティやアビリティ、タレントも
それなりに把握しているつもりではいるし、
それに基づいて現実的な所見を下すくらいの
理知には恵まれているらしい。

そしてそれらへの反証が
現実で起きることもないことから、
その確かさは日を追うごとに明らかとなっていく。
結論それが言いたかっただけかな、終わり。