「付喪神」とも書くが、同じ「つくもがみ」のようである。器物が百年経ると化ける、というヤツである。神=魂とか霊、の意味のケースなので、今なら精霊とか妖怪とか鬼とかいった感じなのだろう。(「鬼」も本来、この場合の「神」と同義。だから「魂」って漢字には「鬼」が入っている。)


明治生まれだった祖父の家を解体する時、かなり古い道具や本が出てきたが、残念ながらほとんど捨てられてしまったと思う。かなりいいものだと祖母が大事にしていた座卓などでも、捨てざるを得ない傷み方なのだ。木製の器物で数十年持つものは少ないと実感した。陶器なども欠けたりヒビが入ったりして、ほぼ捨てるしかない状況だったはずだ。…100年もあるということは、それはそれは大事に使われた、そう使わざるを得ないほど凄い価値のものだったということなのでは、と思う。元々の気の入れようが、製作段階から違っていて、風格も通常の品ではなかったのだろう。…そういう物に時代がつくから、化けると言われても不思議な気がしないのだと思う。そんな逸品が蔵とかの片隅で埃まみれになっていたら尚更だ。

器物が化けるという発想は、平安時代にはすでにポピュラーになっていたようで、『今昔物語集』をはじめ説話集には器物のお化けがたくさん登場する。ただし全部が全部、百年を経た「つくもがみ」という訳でも無さそうだ。室町時代あたりに描かれた『百鬼夜行絵巻』には草履のお化けなども描かれている。藁製では百年も保たないはずである。

とにかく古くなった器物には何かが「付いて」いる、と考えたのだろう。(「憑いて」の方が雰囲気が合っていると思うが。)器物が化けた程度で可愛らしいもの、などと思っていたら大間違いである。器物が化けた怪異の説話は、人死にが出ているケースがとても多い。16世紀辺りの『付喪神絵巻』の器物たちも、化けた後で人間を山盛りにしたのを肴に酒盛りをしている描写がある。それほど「物に付いた念は恐ろしい」と考えていた、いうことなのだろう。

現代の断捨離ブームは、近世には廃れたと思われていたこの九十九神的発想の再来のようにも思える。現代の手狭な住宅事情も相まって、古いものを捨てて気を新たにする断捨離は大流行りだ。執着を捨てるという仏教的発想もあるのだろうが、何やら日本の中世に、九十九神怖さに立春前に古い器物を捨てていたのとかぶって見える。…先述『付喪神絵巻』では、それで怒った器物の妖怪に、人間が復讐されて喰われちゃったりしているのだが、さて、現代ではどうであろうか。少なくとも、捨てて何か後ろめたいのなら、九十九神は沸いてきてタタリそうに思えるのだ。いくら現代でも、捨てるぐらいなら作らない、買わないのが筋だと思う。買っちゃったのなら大事にするべきなのだ。物に当たるなどもってのほかである。

まあ、どうでもいいゴミとかでゴミ屋敷化したら、何かもっと良くないモノが取り憑きそうなので、是非断捨離すべきだろう。だが、本当に古くて良い物は断捨離すべきか、いや、それ以前に、他の持ち主を探して、自分から引っ越していっている物も多くあるように見える。骨董商に渡る、拾ってもらえる人の手に渡る、廃仏毀釈される前に海外に避難するなどして。今ならメ⚪︎カリやら⚪︎フオクなどという手もあるが、そんなお手軽な手段がない時代に人手を渡っていける物は、何か突き抜けたものがあったのだろう。語り継がれるエピソードが「付く」ほどに。そういうレベルになったモノには、明らかに何かが宿っているのだろう…。一部の超有名宝石や絵画のように、主人に不幸をもたらすモノすらいる。でも、そのモノの方も不幸に見える。価値が高すぎて、愛用されるのではなく投機対象となっているのだから。祟りたくもなろうというものである。そういうモノが現代の九十九神かも知れない。

京都遷都1200年記念の企画展で、平安期以来の物凄い国宝を一気に十数点見て、あまりの迫力に頭がショート寸前になったことがある。本当に目眩がした。脳が情報処理に追いつかない。道長や清盛クラスが糸目をつけずに作らせた愛用品や凄い寺社への奉納品ばかり。それが時代がついて迫力が何倍にも増している。…物に宿る力は馬鹿にできないとつくづく思い知らされた最初である。

こうなると、九十九神どころか「神っ!」なのだが、誰もが断捨離どころか、とても大切にして命に代えてでも後世に遺そうとしたから、今目の前に国宝としてあるのである。有難い話である。


で、これらの国宝は全然祟りそうには見えないのである。時代がついているのに、うらぶれた感や、恨みがましい陰にこもったような気配がさっぱり感じられない。『北野天神縁起絵巻』の、宮中に神鳴を落として祟りまくっている描写や、阿鼻叫喚の地獄絵の巻ですらそうなのだ。むしろ清々しげな気さえ感じる。大抵が、どやあ、という顔で堂々と鎮座している。

…この国の文化的には、やっぱり物は大事にした方がいいんじゃないかなあ、と思う。そこに乗っている思いなんかも含めて。凄いお宝とかじゃない日用品とかも、断捨離する時、せめて、昔からある針供養とか筆塚みたいに、感謝してから手放そうよ、と思う。