http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/uchida_ryo.html
内田は同志とともに社主を拉致、大阪の中之島公園の灯篭に縛りつけて、大衆の前で「国賊だ」と批判した。朝日新聞は全面屈服し、大山郁夫ら左翼系記者6名をクビにしたという。しかし、吉野作造(8-1-13-18)と公開論争をして敗北。
上では、内田良平が敗北したことになっています。
http://www.c20.jp/1918/11toron.html
豊田穣 「西園寺公望(下)」 P.110
まず、黒竜会幹部内田良平が壇上に上がり、村山を襲った池田と自分の間には不明朗な関係はないことを“謙抑せる紳士的態度”で説明した。続いて浪人会から佐々木安五郎、伊藤松雄、田中弘之、小川運平が次々に立って、「大阪朝日」(九月二十五日)の不穏なる論説に対する吉野の賛否及び、忠君愛国思想に対する吉野の所見を訊いたが、その態度は“紳士的態度を失わざらんと努め”(報知)ていた。
これに対し吉野はまず「思想に当るに暴力をもってすることは、すでに暴行者が思想的敗北者であることを示す」と述べ、ついで国体及び民本主義について述べ浪人会の誤解を解き、「思想の過程はともあれ憂国の至誠において劣るものではない」ことを強調した。
田中は吉野の同意を得て次の覚書をまとめ朗読した。
一、池田某の行動に関し、内田良平の弁明を聞き、吉野博士は浪人会の趣旨は言論圧迫に出でたるものに非ずと認む。
二、吉野博士並びに浪人会は、尊厳なる我国体崇尚のもとに益々君民一致の美徳を発揮する為、各所信に従って努力すべき事に一致せり。之によりて本会を散ず。
この日吉野に対する危険への憂慮から会場に入れない群衆も数千人に達し、 吉野が無事に出て来ると「吉野先生万歳」「民本主義万歳」を連呼して神保町角まで行進した。
http://www9.ocn.ne.jp/~gakujin/dayori3.htm
(2)浪人会との立会演説会
一九一八(大正七)年十一月二十三日夜六時より、東京神田南明倶楽部に於て、国家主義団体「浪人会」派の六・七名と吉野作造一人とが対決した立会演説会のことです。吉野によると、この直接的理由は、「大阪朝日」の論調が国体を冒涜し朝憲を紊乱するとして、浪人会が不穏な暴力的言辞で大阪朝日を攻撃し、同社村山社長を襲撃した事件(一九一八年九月二十八日)について、吉野が「中央公論」同年十一月号で「斯くの如き形で言論に一種の圧迫を試みるのは決して喜ぶべき現象ではない。」と非難したことにあるのです。(同年十一月十二日付「日記」)
さて、この演説会の結果、二つの点、「立会演説会」の性格と形式、及び両者間で取り交わされたと一部新聞が伝える「二項目合意」の有無が問題となりました。
前者について吉野は、 一九二六(大正十五)年八月に「立合演説」という小文を書き、1互いに一歩も引けない時、2双方から二・三十名の識者を出し合って、公平な審判を仰ぐ、3そこでいったん方向が決まったら、「我を折って」従うべし、と提案したが、浪人会側から拒否されたと証言しています。
また、二項目合意については、「報知新聞」は「吉野が、大阪朝日新聞村山社長襲撃事件につき浪人会側の弁明を聞き、言論圧迫の意図なきを認めたこと」「両者が君民一致で合意したこと」の二項目を、「東京日日新聞」は後者のみを報じています。しかし、「学生社会運動史」(菊川忠雄著)も 「黎明」(麻生久著)もこの件には一切触れていません。吉野自身も口をつぐんでいます。菊川や麻生は、吉野が指導して設けた新人会の有力メンバーだったのです。そして、二者は異口同音に、吉野側の圧倒的勝利を宣言しています。果たして事実は?疑問は容易には解けません。
上2つによると、引き分け?とも取れます。引き分けであれば、暴力による威圧を行いながら言論での非難を回避できたという点で内田良平の勝ちとも解釈できますね。
一体、どっちが勝ったのでしょうか?