083.これ結構、知られてない日本朝鮮の歴史


【毛利元就と朝鮮半島.2.世界遺産:石見銀山】

2013年5月21日UP


毛利元就(もうりもとなり)は中国地方の小さな国『安芸:あき』で生まれました。なので大国の尼子家や大内家に挟まれた環境下で彼は、幼い頃から人質生活をして暮らしていました。そんな苦難の生活の中で、多くを学び立派に育ちます。そしてのちに安芸(今の広島西部)の小規模な国の領主から始まり、中国地方のほぼ全域を制覇し、中国地方(今の山口県、広島県、島根県、鳥取県)の覇者となりました。


そんな毛利元就の財政を大きくバックアップしたのが世界遺産『石見銀山:いわみぎんざん』です。当時世界中の『銀』の3分の1が、ここで産出されていたといわれていますからオドロキの話です。


元々の石見銀山発見は鎌倉時代末期の1309年に周防の大内弘幸(毛利元就のライバル大内義隆の先祖)が、石見に来訪し北極星のお告げによって、銀を発見したという伝説が始まりです。この頃から、ある程度の採掘がなされていたものと考えられます。


本格的に採掘されるようになったのは、戦国時代の毛利元就の時代です。1533年に『灰吹法:はいふきほう』が本格的に導入され、銀生産が爆発的に活性化とされています。


さてこの『灰吹法』ですが、飛鳥時代に朝鮮半島から渡って来た技術とされています。そして戦国時代に入り、石見銀山に呼ばれ、高い技術を発揮したのが『宗丹』と『慶寿(桂寿)』と言われています。この『慶寿(桂寿)』という人は、当時(戦国時代)の朝鮮半島から来た人なのです。


参考資料:小葉田淳氏著『日本鉱山史の研究』などにも「1533年神屋寿禎が博多から宗丹と慶寿を石見銀山へ連れて来て、灰吹法による精錬が始まり、産額が増加した」と書かれています。1975年から1987年まで、金達寿・李進熙・姜在彦さんらが発行されていた『季刊三千里』にも日本の金銀採掘について具体的に、書かれています。


つまり、厳島神社に続き、日本の世界遺産『石見銀山』も朝鮮半島と関わりの深い場所だという事なのです。



※お時間のある方はお読みください。

(*- -)(*_ _)ペコリ

『宗丹』と『慶寿(桂寿)』宗丹については実体がはっきりしていません。ただし、慶寿だけを具体的に書きますと。『慶寿 (桂寿)禅門の僧』韓人(白い民族服をまとっていた。南方朝鮮からの渡来人)九州・宗丹鉱山にいた朝鮮半島出身の吹き師で禅門。石見銀山に来てからは昆布山谷、出し土谷に住んでいた(その付近には韓人屋敷もあった)生野銀山にも訪れ、灰吹き法の技術を伝えた(「慶寿ヒ」という掘切り名が残る)といわれています。