工藤先生が医事新報で、特定看護師制度素案において、厚労省と日本医師会のアンケート結果に、対象が異なることから乖離があり、その原因として大病院の勤務医ほど忙しいがためか看護師に医療行為を委任したい傾向があると指摘された。先生は看護師業務の安易な拡大に反対であると控えめに主張されていると思われるが、私は医事法学の立場からこの素案が不適切であることを直接的に指摘したい。


保健師助産師看護師法は第5条で、看護師の業務を「傷病者若しくはじょく婦の療養上の世話又は診療の補助を行うことを業とする者」と明確に定義しており、現在問題になっているのは、医師の指示で看護師が補助できる行為の範囲の拡大であって、看護師にいかなる医療行為の判断をさせてよいかではないはずである。


しかるに、本素案は医療行為カテゴリーAにおいて医師が絶対に行うべきものをあげている一方で、B2において、「行為を実施するタイミングにおいて難易度が高いもの」として看護師の行いうる可能性を定立しているが、そもそもこの考え方が現行法の理念から逸脱しており、さような判断を看護師に許すなら、保助看三法そのものの大改正を行わなければならず、医療法の小改正などですむ話ではないのである。けだし保助看三法は医療法の下位法規でもなければ特別法でもない。


さらに実質的にこの範疇が問題な理由は、ここに列挙されている医療判断はまちがえば患者の命を奪うものであり、いかに看護教育が進歩してもそうした責任を看護師に求めることは問題である。実際、私自身、当直医が脱水という誤った判断をし、剰え、急速過剰な輸液をおこなって、肺水腫をきたし、患者がほどなく死亡した例を主治医として経験している。


一方私は、看護師が医師の指示と責任のもとで、気管チューブやバルーン型のPEGチューブの交換、IVHカテーテルなどの皮膚への縫合固定、末梢の動脈血採血などを行うことには、もちろん研修をした上であるが、賛成である。すなわち、カテゴリーB1のような医師の指示下に看護師の技術を利用することは保助看三法の趣旨からいっても問題はないと考える。それが実際的にも許容されるのは、次のようなケースを考えてみれば容易にわかる。採血は医療行為であり、本来医師がやるものだが、患者のなかに医師から直接採血してほしいと思うものがどれだけいるであろうか?毎日行っている看護師のほうが熟練しているからにほかならない。つまり、学識ではなく習熟によってできるものは看護師にゆだねることは不当でないであろう。しかし、前記の脱水の判断と輸液などは習熟だけではなく相当の学識が必要であり、医師の分野であるといわざるをえない。

少子化と財政問題はリンクしている。またそれは小泉政権時代以来の新自由主義経済の導入とも関連している。新自由主義経済は日本の国情を変え、一億総中流国家という世界史上まれなる達成を地に落としたのである。そして、老齢者への富の集中と抱え込みを許し、多くの若者から将来への夢を奪ったといえる。


したがって、現在の処方箋は、資産税の導入により、金融資産を市場に放出させることで、デフレにとどめをさし、産業の活性化、雇用の創出を図ることであろう。消費税など財務省の省益と机上の論理の秀才論理でしかない。ギリシャと日本の違いも無視するような大雑把な論理と、橋本政権の失敗に学ばない態度はおかしい。所詮野田首相は総理の器ではなかった。財務省に歴史に残るなどとおだてられたサル回しのサルといえようか。


少子化の解決は経済の回復とリンクするはずで、未来に希望があれば人は子作りにはげむはずだ。