今をときめく原発事故関連のスターである小出博士の講演を聞いてショックを受けた。といっても放射能汚染の大きさではなく、かれの論理である。つまり汚染した食べ物は責任に応じて大人が食べればいいというものだ。いわく、東電の食堂、国会の食堂、資源エネルギー庁の食堂の順に汚染されたものを並べろというのだ。その目的は福島の第一次産業をつぶさないためただという。

かれは一方で放射能限度の1mSv/年を法治主義国家として守るべきだといいながら、一方では法律に違反するような処罰を与えろといっているからだ。かれが京都大学原子力研究所に就職してから原発の危険性に気付き反対運動をしてきたことは評価できるが、急にスポットライトを浴びたためか、本来の過激な思想が顔をのぞかせてしまったようだ。

東電の会長に汚染食品を食べさせるのは菅さんがダイオキシン事件とときにかいわれ大根を食べたのと同様パフォーマンスでしかありえない。なにも解決しないのだ。

今必要なのは事故がおきて広島原爆の470発ものセシウム123と127が放出されたという現実の上にたってベストな方策を探ることである。とすれば、1mS/年という基準を再検討した上で、食物も規制値未満のものは流通させ、そうでないものは捨てて賠償するしか道はないであろう。

原発周囲の土地にしても4万Bq/m2の基準をみなおして、できるだけ除染した上で広島や長崎のようにふたたび住めるようにするしかあるまい。

世界には危険が満ちている、安全ということは、リスクを適当な費用で最小化することである。安全は相対的なもので、絶対の安全などないことは子供でも知っている。歩道を歩いていて車にはねられないと誰が保証できようか。したがって安全は適切な基準で区分けるしかない。安心は個人的な心情であるが、こうした大事件のときに安心を強調すると、社会は崩壊しかねない。政府の基準を無視し、線量計を持ち歩いて、自分の子供にだけまったく汚染されていない飲食物を与え、すこしでも被曝の可能性のあるところでは遊ばせない母親は個人的には賞賛されても社会的には失格であろう。