北海道選出の鉢呂経済産業大臣が辞任した。「福島原発周囲は死の町」「放射線うつすぞ」という失言の責任をとった形だが、後者の記者との会話についてはそのシチュエーションも真意も悪質なものかどうか疑わしい。

新任だっただけに辞任は個人的にはつらかったろうが、逆に言葉の端はしで追求されることに嫌気がさしたのではないか。喜んでいるのは、原発推進派の経済産業省官僚と、北海道政界の天敵である高橋知事くらいなものか。

1990年以降辞任した大臣はなんと42人もいるが、そのうち失言が原因となったのは10人目である。人間は言葉を持った動物であるから、言葉の重みを大事にすることは大切であるが、政治家が辞任するためには、それなりの重い失言であることが必要であろう。今回の例は大臣になれたことでの気分の高揚がおこした不注意、不見識であり、少し時間がたてば、かならず自覚ができるはずのものである。

それに比べると、小泉首相の「守らなくてもいい公約がある」という国会での発言などまさに辞任に値するものであり、辞任に追い込まれるかどうかは、時の政治力学の結果にすぎないことがわかる。

こうした傾向はなにも政治の世界にかぎったものでなく、現代日本は言葉狩にうつつを抜かしているといっても過言ではない。古くはある作家がてんかん協会からの抗議で自発的に筆を折ったことがあった。精神分裂病を統合失調症、老人性痴呆を認知症、盲目を目の不自由な人に言い換えても、病者や弱者に対する思いやりがなければ無意味である。心は言葉に規定されるのではなく、心から出てくる言葉だけが本物であるということだ。

そういう意味ではことば狩は形式主義社会の反映でもある。

個人情報保護といえば、小学校の連絡網に住所や電話番号さえ記載できないと考えることも一種の形式主義であるが、こうした形式主義は実は日本の伝統ではなく、欧米から移入された害悪といえる。

経済界にもこうしたアングロサクソン標準が害毒を流している。銀行の自己資本比率基準や破たん処理、デリバティブや先物市場など、必須でない規制や奔放な自由化によって経済社会は漂流しているではないか。

今一度、わが国の伝統を見直し、江戸時代の停滞ではない安定を見習おうではないか。

失言辞任問題から言葉狩を通して、形式主義の害悪まで展開してしまったが、私の常日頃言いたかったことがそこである。