Nさんの体験談~②息子の警察出頭、そして病院へ~ | はあもにい~セルフ・サポート研究所のブログ~

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『誰にも言えずにひとりで悩んでいませんか?』
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  当時、長男は23歳だったと思います。しばらくはその女性のところにいましたが、99年の正月くらいから「そろそろ家に帰ろうかな」と言い出して、それからは頻繁に帰ってくるようになっていました。

 

 11月の学園祭が終わる頃に、長男がぽつんとへんなことを言ったのです。「病院に行こうかな、警察にいこうかな・・・」と、誰に話しかけるわけでもなく、独り言のようでした。私には何のことか、ピンと来ませんでした。

 

 その日の長男は「お父さんは?」「今日遅いの?どれくらい?」と何度も聞いてきました。「お父さんに話があるの?」と聞くと「そうだ」と言います。「お父さんは酔っぱらって帰っていらっしゃるから話にならないわよ、お母さんに話したら?」とどんなに水を向けても、絶対に口を割りませんでした。

 

 後になって聞くと、「お母さんに話すとショックが大きすぎるから、世間を知っているお父さんに聞いてもらおうと思ったんだ」と言っていました。

 

 それからは、うろうろして落ち着かない様子でした。階段を上がったり下がったり、じっとしていられないのです。とにかく落ち着かせようと思い「お父さんとお母さんの部屋で川の字になって寝よう」と寝かせていた時、主人が帰ってきました。

 

 「この子の様子がちょっと普通じゃないのよ」「ねえ、話してごらんなさい。」と主人に話していると、息子が、「この部屋はダメだ、盗聴されている。」「外に人がいて僕を狙っているんだ」とか訳の分からないことを言い出しました。その様子を見るなり主人が、「フラッシュバックだ!」と言いました。以前息子から、"マジックマッシュルームを食べたことがある。"という話を聞いたことがあったからだそうですが、その当時の主人にはフラッシュバックの症状に関する詳しい知識などあるはずもなく、ただびっくりして訳も分からずに口走ったのだと思います。

 

 やがて、何かに怯えたように長男は私にすがりついてきました。「小さいとき、寝る前には必ずこうしてあげたわね」と言って頬をさすり、耳たぶを触ってやると「気持ちいい」と言って長男は寝付きました。しかしすぐに何かに怯えたように長男は私にすがりついてきました。しかしすぐに何かに怯えたように目を覚まし、跳ね起きるのです。

 

 次の日には「学園祭で不始末をしてしまった」と、しきりに申し訳なさそうにしていました。学園祭で何があったのか詳しいことは話さないのですが、その不安定な様子のまま、彼女のところに学園祭で使った音楽関係の機材を返しに行きたいと言い出し、電車で向かいました。心配して付いていった主人と長女は、そのとき混乱した長男に巻き込まれてひどい目にあったようです。長男と主人は追っかけっこのような状態になったのです。電車の発車寸前に、長男はプラットフォームに降りてしまう。電車内に残されて慌てる二人の携帯電話に長男から電話が来る。そんなことの繰り返しで、あまりにもひどいときに主人は長男の頬を殴ったそうです。酔っぱらったときのことは次の日にはすっかり忘れてしまうものですが、そういうものとも違い、長男はこのときのことを今でもしっかりと記憶していると言います。

 

 その後主人から連絡を受け、私も渋谷で三人と合流しました。渋谷で家族4人が揃ったのです。すると長男は「警察に行く」と言い出しました。「ハチ公前に交番があるから、そこに行こう」と私が言うと「交番ではなくて渋谷署に行く」というのです。

 

 何かわからないまま長男の後について、渋谷署まで家族みんなで行きました。11月3日の祝日で、渋谷署には国旗が掛かっていましたが、祝日などは業務に関係ないらしく、生活安全課の女性刑事が対応にあたり、長男の顔を見て「ああ、やっていますね」と言いました。

 

 上に行きましょうか、とその女性刑事に言われて、階段をぞろぞろと上がっていきました。取調室の中、私たちの前で長男は「薬物をやっていた」と告白したのです。

 

 このとき一人で廊下にいた長女は泣いていました。彼女には直感的に事態がどういうことかわかっていたのでしょう。気の強い子で、泣くということは滅多にないのに・・。

 

 やがて、生活安全課の刑事が出てきて「いま、尿検査すると逮捕になりますが、病院を紹介します」と私たちに言いました。それからその刑事はH病院に連絡して、電話口に出た職員と交渉してくれました。「暴れていません。穏やかです」などと、丁寧に説明してくれていました。そして長男はその病院へ入院することになりました。7時頃、渋谷署からタクシーで病院にむかいながら、渋谷の街のネオンできらきらと輝き、若い人たちで溢れているのをみて、「この子も昨日までこのようなところで、このような人達の一人だったのだなあ」と思って外を眺めていました。

 

 「エクスタシー、覚せい剤、マリファナ、すべてやりました。はい、やりました。はい、やりました・・・」と、長男はケースワーカーさんの質問に答えていました。

 

 そのまま「入院です」と言われ、本人だけが入院して、その日は家族三人で帰りました。別れ際に彼が握手をしてきたので、「ここで心を入れ替えしっかり治すのよ」という気持ちで、私はその手をしっかりと握り返しました。「これからは毎日お見舞いに行こう」と思っていたら、ケースワーカ―の方に「面会は週に一度きりです」と言われてしまいました。その瞬間に突然、涙がバラバラッと出てしまって、それを見たワーカーさんがびっくりした表情で「じゃあ週に2回にしましょう」と言ってくれました。

 

 主治医に「息子さんは薬物依存症です。この先、刑務所を出たり、入ったりするか、のたれ死にするか、恐ろしい運命が待っている可能性が高い。ほんのわずかだけれど社会復帰する可能性がないわけじゃない。でもそれはコンビニのレジ打ちとか、家の内と外の掃除仕事くらいでしょう。入院期間は三ヶ月です」と言われたときの私のショックがお分かり頂けますでしょうか。食事はのどを通らなくなるし、一日中体が震えて大変な状態になってしまいました。「息子さんは非常に穏やかなようですが、その大人しさは、統合失調症のあらわれかもしれません」と言われた時も、ものすごいショックを感じました。長男からはしょっちゅう電話がかかってきましたが、こちらの感じている動揺を伝えることもできず、必死に明るく振舞っていました。

 

 H病院の家族会でナラノン(薬物依存症者を身近に持つ人々の自主グループ)、保健所、精神保健福祉センターなどを紹介されました。最初は保健所に行きましたがなんのアドバイスもなく、依存症から回復中の人たちが運営している施設を紹介されただけでした。センターに電話をしたら、予約が随分先になってしまい、ナラノンに行き始めました。四谷、喜多見のナラノンに行ったのですが、ナラノンでは余計に恐ろしい話ばかり聞かされました。"今刑務所にいる"とか、"さっき隣の部屋で薬物を注射していたけれど内緒で出てきました"とかそんな話ばかり。どのようにしたら回復するのか、という先行きの明るい話が何一つないのです。「回復は足と耳でするものです」といわれて懸命に通いましたが、行くほどに帰りは恐ろしく、苦しくなってしまいました。あるナラノンの会場で、絶望的なことばかりいうお母さん方の前で主人が「息子は絶対に回復すると思うから、それを信じてやっています。」と強く言っていたのを思い出します。この時期、主人にはほんとうに支えてもらいました。私が混乱してどんなに眠れず、食欲が全くない時でも、主人は夜はすやすやと眠り、食欲は一向に落ちることなく、モリモリ食事していました。そんな姿を見ていると、男の人は強いなあ、私はめげてもいいんだなあ、私が倒れてもこの人はきっと私を支えてくれるだろう、と思えたのです。

 

 その年の暮れに薬物依存症を専門に扱っている相談室に電話して、主人とカウンセリングを受けることにしました。12月25日は相談室で開催している教育プログラムの年内最後の日でした。「刑務所、精神病院、コンビニしかない、と言われました」と私が言ったら、カウンセラーが軽く笑い流してくださったのです。その笑顔に光が見えました。初めて希望が持てたのです。

 

 おかしな話ですが、この時に私は、ストーンとお腹がすいたのです。カウンセリングが終わったら久しぶりに食欲がわいてきて「お寿司が食べたい!」と思いました。新大久保においしいお寿司屋さんがあるので主人と行きました。急に食べたので激しい腹痛に襲われ、新宿のデパートのトイレから出られなくなってしまいました。閉店放送の「蛍の光」のメロディーを聞きながら「しょうがないか・・・閉じ込められたとしても警備員が来るだろうし・・・」なんて考えていたのを覚えています。

 

 年が明けてすぐに木曜日の教育プログラムに出席し始めました。土曜日の体験談には主人と二人で出席しました。その頃には退院後の話も出てきていました。退院して来たらどういう風に接したらいいのか、この先あの子がどうなるのか、彼がいったい何をしたいのか、その三点が分からなくて私たちは困っていました。薬物依存症のことを私たち自身がもっと勉強してからでないと受け入れる自信がありませんので、H病院に頼んで退院日を延ばしていただきました。

 

 「お母さんたち、相談室に通い出したのよ」と息子に伝えると、「僕はそこを知っているよ、僕も行って話を聞きたい」と言いました。相談室が運営する施設で回復した仲間たちのメッセージがH病院にも届いていたのだそうです。そこで、病院の先生とカウンセラーにお話しして、木曜日に相談室に行ってプログラムを一緒に受け、夕食を食べてから病院に送り届けるようになりました。NA(薬物依存症者のための自主グループ)には休日に主人が連れて行きました。今になって聞くと「あの時はただ外の空気が吸いたかったんだ」なんて長男は言うのですが。

 

 やがて、長男は正気に戻ってきました。「周りはおかしなやつばかりだ。頭が狂いそうだ」と言い出し、退院日を心待ちにするようになりました。退院日は2月15日でした。退院時には「2年間は薬を飲むように。それから少しずつ減らしていってください。他の病院に行くならどこの病院でも紹介状を書きます。」と言われました。その後、相談室のカウンセラーからM病院の医師を紹介されたので、さっそく診察を受けにいったのですが、担当していただいた先生は、あまりの処方薬の強さと量の多さにびっくりされていました。それからM病院では、約一か月間位で処方薬を切ってくださいました。

 

 同じ病気の診断なのに、お医者様によってどうしてこうも考え方が違うものなのか、何も分からない私たちはとまどってしまうばかりでした

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