Tさんの体験談~⑥プログラムを生かせるか?息子と私の同居~ | はあもにい~セルフ・サポート研究所のブログ~

はあもにい~セルフ・サポート研究所のブログ~

『誰にも言えずにひとりで悩んでいませんか?』
家族・友人・知人の依存症(薬物・ギャンブル・アルコールなど)の問題でお困りの方を支援するセルフサポート研究所のブログです。

 翌年の二月末に息子は仮出獄しました。当日はみぞれ交じりの寒い日でした。

 待合室の窓からは小高い丘のような山が見えていました。その場所は海に近く、こういう山と海に囲まれて脱獄しにくいところに刑務所は建てられるのだろうな、と待っている間に想像していました。

 しばらくすると、刑務官の後ろについて息子が待合室に入ってきました。いい顔をしていました。懐かしそうな昔どおりの笑顔でした。外でタクシーを待つ間、門の外に見える建物を指差して「あそこで作業していたのだ」と息子は言うのでした。まるでそこが普通の会社の現場か何かのように言う息子をおかしく思った覚えがあります。

「お前、そのズボン汚いし変だぞ。その辺で買ってはき替えて行けよ」
「これでいいんだよ」

 そんな父と息子の会話を傍らで聞いていました。昔の私だったら夫と同じことを言っていただろうな、と思いました。そのときの私は、息子の服装にとやかく口出ししていた以前の私ではなくなっていました。

 

 彼は文庫本などの持ち物を詰めた袋を宅急便で出そうとしていました。自分は海を見ながらゆっくり帰るから、タクシーで駅まで行く私たちに、途中でこの荷物出していってくれというのでした。しかし、彼に途中まで一緒にタクシーに乗ってもらい、彼自身が出していくように頼みました。依存症者に対する基本的な対応を学び、初めて意識して息子に実践した日でした。それが誰の問題であるかを確認し、彼のやることを安易に代わってやらないことを実践できて嬉しかったことが思い出されます。

 しかし、一方で、彼の行動をコントロールしたいという私の潜在意識は、かなり強かったと認めざるを得ません。息子は、塀の中で長い間止めていられたのだから、もう施設に行く必要はないと思っていました。そんな息子に対して、

(そうじゃないでしょう。施設でプログラムに取り組んでいるメンバーたちのように、あなたも回復していく仲間の中にいないとダメなのよ…)という思いを強く抱いていました。相談室のグループに参加して体験談をはなしてくれた、あの若者たちのように早く回復してほしい、という期待感でいっぱいでした。

 ついに始まった息子との同居の中で、それまで学んだ教育プログラムの理解を実践していくために、自分にはかなりの力が入っていたように思います。できることはやろう、と決意していました。まずはお金の管理です。施設でのケアを受けるなど、回復につながるためのお金以外一切出さない、ということは徹底してやりました。本当にわずかなお金しか渡さなかったので、これじゃまたヤミ金などから借りてしまうのでは…?という不安もありましたが、相談室に通い続け、周りの人たちの支えを得ながら、とことん実践に取り組みました。息子の帰りが遅いときでも、平安の祈り(様々な自助グループなどで用いている祈り)を唱えて心を落ち着けせて眠りについていました。


 息子はすぐに仕事を探して就いたようです。給料が入る前に「少し貸して」、と息子に言われましたが、私は頑強に拒んで出しませんでした。

 仮出獄してから三か月後、刑の満期でした。その日から十日間ほど息子は返ってきませんでした。近くに住んでいる女性のところにいたのです。最初に逮捕されたときには、その女性から何度も家に電話がありました。彼女が警察に密告したので今回逮捕されたんだ、と息子は言っていました。

 ある日、その女性と母親がいきなり家に押しかけてきました。息子が彼女の携帯電話を使ってかけた使用料を払ってくれと、それが三万円くらいになっていたようです。私たちのほうではお金を立て替えるということはしない、と二人に説明しました。それから、本人の病気について説明しました。すると二人は二階の息子のところへ行き、息子の前で怒り狂っていました。息子はうっとうしくて彼女から逃げたかったようです。結婚したいと意志が彼女のほうにはあったように思えます。それで半ば軟禁状態のようにされていたらしいです。なんで自分を警察に売った人のところなんかに行ったのかと思いますが、親からお金を貰えないため、彼女を頼るしかなかったのでしょう。

「カウンセリングを受けてみる?」と聴いたら、
「彼女から切れるためだったら相談に行く」と息子は言いました。
その翌々日、息子は私と一緒に相談室に行ったのです。

 カウンセラーと息子の最初の面接では、
「自分がいることで親に迷惑が掛かるから、アパート代を出して欲しい」
と息子は言いました。


「依存症というのは自分ではよく分からないけれど」とも息子は付け加えていた為、私はそれでいいのだろうかと、少し不安でした。
「じゃ、そうしたらいいですね。お母さんのほうに彼女から請求が行かないように、外で彼女と問題を解決するように」
それがカウンセラーの提案でした。

 息子は、そのときの状況の話を、「カウンセラーの○○さんは、俺のこと良く分かってくれたよ」と、わずかな時間で自分の味方をしてもらったという印象をもったようでした。

 結局、彼女たちとの間には父親が入って話し合い、それ以来、女性からの連絡は来なくなりました。

 息子は七月にウィークリーマンションに入りました。そこから仕事を探しに行くという約束をし、生活費は週にいくらという取り決めをして、そのお金は夫が直接、息子に会って手渡していました。ところがインターネットの使用料金として二十七万円の請求が、大阪にいた父親に行きました。契約書が父親だったので夫に請求が行ってしまったのです。結局、払わないわけにはいきませんでした。あっという間に生活が行き詰った息子は、七月の末には自宅に戻ってきました。

 その年の十二月には、「はあもにい」のみなさんと一緒に沖縄の施設を見学に行ったのですが、その頃から家の中で長男が置いておいた本が少しずつなくなっていきました。そのうち貴金属、指輪、ネックレス、カメラ、ビデオカメラなどが消えていきました。息子を問い詰めると、「ちょっと貸したんだ」などと言い訳していました。

 年を超して、そのあと一か月くらい息子は帰ってきませんでした。ドアノブに千円のイオカードや、テレホンカードと相談室の番号、夫の携帯番号を書いたメモを入れた袋を提げて、連絡してからじゃないと家に入れないという態度を私たちは取りました。ある日、袋の中のカード類だけがなくなっていました。息子の安否はわかりませんでしたが、とりあえず元気でいるらしい、ということが分かりました。

 私は相談室に通っていたので不安には負けませんでした。仲間のお母さま方からもたくさんの体験を聴かせてもらいました。「息子が来たときは水だけ飲ませて帰す」というお母さまの意見は心強かったです。頑強に家に入れないという態度を守り通すことができました。

 その後一か月半後、息子は帰ってきました。着替えを取りに来たのです。
「すぐに出ていくから休ませてくれ」
と息子は言いましたが、絶対に家には入れませんでした。

「お金がとにかく必要だ。友達がいまレストランで待っているんだ」と、息子はわけのわからないことを言っていました。こちらまでが落ち着いて聞いていられないような焦り方でした。明らかに覚せい剤を使っている様子でした。

 薬物依存症という病気は、本人が治療意欲を持って回復プログラムに取り組まない限り再発を繰り返す。教育プログラムのおかげでそれはいやというほど分かっていました。でも、愛する息子の病気の再発を目前で見ているのは本当に辛く、苦しいものです。

 シェルターに入ろう、と決意したのは、薬物を使っている息子のこうした「巻き込み行動」から逃れて、少し自分のことをみつめる時間が欲しかったからです。

 

⑦息子を手放しシェルターへ」に続く...

--------------------------------------------------

ひとりで悩まずにまずは私たちにご相談下さい。

家族は被害者でも加害者でもありません。

支援者です。

私たちは依存症の当事者とその家族の方を応援しています。

当センターは臨床心理士が主宰する相談機関で、家族支援を通して本人を回復へ導くプログラムやカウンセリングを行っています。

経験豊富なスタッフが丁寧にお話を聞かせていただきます。

特定非営利法人 セルフ・サポート研究所

電話相談 03-3683-3231

お問い合わせフォームはこちら

--------------------------------------------------