・まだ観ていない人に向けて

 認知症になると、どうなるのか。それを映画で表現してしまった衝撃作。「認知症になったら、「何だかおかしいな」って自分で気付くでしょ」と私は最初思っていた。しかしこの映画を観て、自分の無知を恥じた。こんなの、頭が追いつかない。

 

・感想(ネタバレ有り

 前から興味を持っていた映画だ。内容は、認知症になった父が、どんどん精神的にも追い詰められていく。これを父視点で体験できるというクセのある作品。つまり認知症を疑似体験できるわけだ。

 

彼の中では辻褄が合っていた。合っていた?

 さっきまで部屋にいた娘がいなくなっていたり、彼氏がころころ顔を変えたり、ヘルバーさんが一瞬で違う人に変わったり、部屋自体が変わっていたり、とにかくわけが分からない・辻褄の合わない内容がドッと表現されていた。「認知症の人からしたら、こんな風に世界が見えているのか」と圧倒されたよ。そりゃ受け止めきれないわと、本人の意識どうこうの問題では無い事を知った。この映画はこういった父視点と、同時にそれを支える周りの人たちの様子も描写しているので、どちらの立場の気持ちも分かるまとまった印象を持った。『百花』という映画があるが、「この作品の認知症となった母親の場合は、どのような世界が見えていたのだろう」と気になる。

 

「散乱した現実」

 観た時は感じなかったが、辻褄の合わない世界にも、現実のピースみたいなのは散りばめられていた。娘の彼氏の内一人の顔(父視点)は、病院のドクター(現実)で、ヘルバーさんの内一人(父視点)は看護師さん(現実)だった。

 

「そばにいて。」

 他にも部屋の様子や小道具を効果的に配置することで、似たような部屋の造りであっても、場所が違うことを表現していた。各部屋の間取りがほとんど同じなのも、父の精神的な補正があったからと考えれば、納得がいく(安定していた)。つまりあの部屋は父の精神状態を表わしていたんだろう。だから最終的に病室一つになってしまって、わけが分からず自分すら誰か分からなくなってしまう。それで子供のように泣いてる様子は、心が痛かった。いろんな人がいろんな配役になって不安定だったのに対し、いつも娘だけは一貫して「娘」として認識されていた。それだけ娘は、彼にとって信頼できる存在だったのだ。しかし、その娘さんも最後はいなくなってしまい、症状がさらに進行してしまった。仕方がないのは分かっている。父親としてこんな台詞を言うはずがないのも分かっているが、病室にいる彼を見ていると、悲痛な声で想像してしまう。「そばにいて。」

 

美しいラストカット

 ラストシーンで泣きながら「私がなくなってしまうようだ、まるで葉っぱが散っていくように、私の葉はもうない」と絶望的なシーンを見せた。その後、緑の木々を結構長い時間映すという終わり方で、観た時は「不自然だな、何かしら意味があるんだろうけど」って思うにとどまった。そして考えてみた。「あなたの今まで(葉:出来事や人生)が決して落ちることはない、消えることはない」という救いのメッセージがあるんじゃないか。そんな言葉は一切無かったから、あくまで予想だが、「この暗喩は美しい」と思った。「終わり方じゃない。どう生きたかだ」と、鮮やかに言われた気分だった。