・まだ観ていない人に向けて

 母の死、疎開、新しい母親、環境の変化が激しい中、主人公は不思議なアオサギに出会う。奴は言う、「母親は死んでいない」と。

 この映画を観る人には、「二回観てほしい」と言いたい。出来れば一回目を観た後に、原作『君たちはどう生きるか』を読んでほしい。これは誰が、誰に向けて、なぜ作った映画なのか。明確な答えはおそらくない。しかし、それでも私はエンドロールで、なぜか泣いてしまった。

 

感想 ネタバレ有り(あくまで個人の感想であり、参考程度に読んでください。)

 最初に「視聴直後の感想」を書く。その後、「レビューや自分の考えをまとめた結果の感想」を書く。

 

視聴直後の感想「思っていたのと違った」

 視聴終了、始めに言う、私はジブリの大ファンなのだが、「思っていたのとは違った」と。ここからは実際に観終って、何のレビューも見ずに私が感じたことを書いたメモを、忠実に写していく。

 

 情報量が多く、ファンタジー要素が多い作品だった。普通の人が観たら、まず何がなんやら分からないと思う。これといった法則性が見えづらい映画なので、ぼーっと展開を見守るしかできないのだ。私の感想は、「これは平和を実現するために君たちはどうするか」という問いかけをしたかったのだろうと感じた。自己啓発ではない。インコ王国は現実の各国みたいだった。普通の生活をおくっているように見えて、自国の利益優先や食べる物などで価値観がズレており、利己的な行動をとる。インコじゃないが、ペリカンの「こうするしかなかった」という台詞は、貧困層の代弁のようにも聞こえる。「大おじ様が決めた」という発言からの、大おじ様自身の「世界の均衡を実現できなかった」という言葉を整理すると、「均衡を実現出来なかったために、貧困層(ペリカン)のような存在が生まれてしまった」と、とらえられないか。わらわらを食ったペリカンだが、元々悪というわけじゃなかった、そうせざるをえなかった。だからこそ、最後のシーンはインコもペリカンも、善悪関係ないありのままの姿で現実の世界に戻ってきたのではないか。一方、純粋で悪意のない積み木の描写が美しくて、それに触れられないという主人公の態度も印象的だ。女性達の美しさもあった。どの人も綺麗だ。そして頼もしい。最後の別れるシーンは切なかったが。エンディングでは、その曲調のせいで色々考えさせられた。「なぜ今この映画を作るのか」というテーマを基にこの映画を思い返すと、やはり平和がテーマだと思う。そういう純粋な思いをどうやって社会で実現させるか、その生き方を考えるきっかけになるような映画だったのではないか。「大人になれば忘れてしまう」、これもキーワードであろう。あの魔法がこの映画自体を表わしているのかもしれない。しかし、結局なぜあの血統である必要があるのか、建物の正体などは謎である。あと、キャラの台詞に説明的なのが混じっているような気がした。(2023/07/16)

 

 こういう感想を俺は持っていたらしい。今はもーいろんな感想動画を観ているので、勿論上記とは別の感想を持っているわけだが、この時の俺は期待したものが観られなくて残念、あるいは「完成度的にも良い映画とまでは言えない」という感じだった。そしてもう一度振り返る。そもそもの前提だが、どうも今回は「なぜ今この映画を作るのか」という、「流行的な感覚」に固執していないらしかった。主人公は宮崎駿自身という話もあり、「彼の回想的な、今までの人生を振り返った的な、とにかく描きたいものを描いた感じ」だという説もある。解釈は人それぞれだが、仮に主人公が宮崎駿ならば、宮崎さんは、ものを誤魔化し、純粋なものに振れられず苦しんでいる人間ということなのだろうか。象徴狩りには少し疲れるが、宮崎さん視点で、今の世の中を描き(戦争や個人としての純粋さ)、そして今までのアイデア(他作品など)を詰め込んだ総集編のような映画だったのだろうか、と思う。そして題は「君たちはどう生きるか」、テーマは一つじゃなかった。

 

追記

 別の説で、「「俺はこう生きた、君たちはどう生きる」と言いたかったんじゃないか」というのがある。そう言われると納得できる面もある。

 

「群衆が多くなかったか?」

 2回目視聴。感動はしたが、1回目の方が鳥肌は立った。今回はどちらかと言えば分析しながら観ていた。やけに一般群衆が多く見える。インコ達、おばさん達、ペリカン達、集団が多い分、一人一人の個性は抽象化される、これといった個性がないと差別化されないという暗示か?ペリカンは生まれる前の子供達(わらわら)を食っている。彼らは戦争・貧困・それらを実現してしまう大人達だろう。そしてそんなペリカンも落ち、彼らの(ペリカンの)子供達は飛べなくなったこと(社会で生きていけない)や食べるしかない(搾取するしかない)という現実の地獄を暗示しているのか。これは一定の社会の秩序やシステムによって発生した社会問題だと考えられる。これをやったのは大おじ様だが、彼は世界の均衡が崩れないようにとした結果だった。つまり悪意がなかった。そしてこのようなペリカンを退治する、ある方向からしたらヒーローなのがヒミで、これまた何を暗示しているのやらとなった。政策や国際組織か?

 

「眞人」と「宮崎駿」

 アオサギは鈴木敏夫がモデルだと思う。宮崎駿がモデルの主人公との掛け合いは、彼らの掛け合いに等しいのではないか。キーとなるアオサギの羽(映画等のアイデア)は主人公が、実行力はアオサギが持っている、そこでの喧嘩。亡き母への思い、物作りをするきっかけ・様子、そこで出会った本、本によって導かれた異世界、嘘を抱えながら大義を目指す、大おじ様も宮崎さんに見えてきた。二人の掛け合いは宮崎さん同士の掛け合いであるように思われるが、最後の方は少し視聴者が主人公になっているように見えた。ラスト、一度目の視聴で「これは墓石と同じです。悪意です。」っていう台詞が気になっていた。どういう意味なのだろうか。それとは別に、さりげなく眞人は「何か残っている」と言われた石を拾っている(心理的な理由は分からない、好奇心か?)シーンがあった。

 

インコとペリカンがあてはめられた「秩序」

 相変わらず純粋な石の描写は綺麗に見えた。宮崎作品と同じ13個らしいが、コレを組み立てることを拒んだということは、宮崎駿が過去にすがることを拒んだ、ということなのだろうか。「時間がないんだ。自分で組み立てなくてはならない。」など、今のままではいけないことが大おじ様から言われる。これは宮崎駿の意識と、我々に対する勧告だと思った。最後、異世界から脱出したとき、怖い存在だったインコもペリカンも綺麗にフレンドリーな様子が描かれている。「結局、その世界の秩序によって、そう見えていただけなのだ」と言われているような気がした。今の紛争を繰り返す国々も、それ自体を見つめれば善人なのかもしれない。利権や貧困や戦争が絡んだ結果が今であろう。かつての日本もそうだった。

 

眞人が「拾った石」

 そして主人公は異世界での出来事を覚えている。異世界を仮に一冊の本だと仮定すると、本の内容を覚えている。それは向こうのもの(本から学んだ事=異世界での経験)を二つ、持って帰ったからだ。一つはキリ子さん人形で元に戻った。なぜお守りとして若いキリコさんは渡したのか、そもそもおばあちゃん達の人形があって動いている描写もあったが、これは眞人(宮崎駿?)にとってのおばあちゃん像なのか、物語的に考えればキリコさんは何者なのか、分からない。しかしもう一つの「何か残っている石」を眞人は持ち続けた。上記に書いた、「拾った石」のことだ。これは本の中で見つけた「興味、信念、知識、考え方」のいずれかだろう。「キリコ人形は強力、しかし石は魔力が弱い」とアオサギは言った。すぐに忘れるだろうと。これは「本の感動を忘れてしまう」ということか、異世界を宮崎駿の仕事自体と仮定するならば、「宮崎映画によって世に与えた感動もいつか忘れられるだろう」という意味なのか。それとも「アオサギ(鈴木敏夫、仕事)との思い出や出来事も、時間と共に忘れてしまうだろう」なのか、真意は不明だと思う。聞いてみたい。いずれにせよ眞人は東京に帰るラスト、しっかりポケットに石を入れている。これからどう生きるのか、という終わり方だったんだろう。最初観たあっけない感じが嘘のように、余韻が凄かった。

 

「自分なりの考えを大切にしてください」

 にしても明確な説明がされない分、解釈の仕様が無限にあるため、自分の見方を見つけて、各々がそれを大切にするべきだと思う。考察見て、原作読んで、自分の考えを持ってようやく理解した気になれる、いやそれでもなれない映画だ。正解もない。ただ総じて言えるのはこの映画が「宮崎駿」という人間に深く関係した映画であり、彼の見てきたものや感じたこと、考えること、願い、思い、使命感といったものが垣間見える作品だったと今なら感じる。そういうのを見せ、ある意味最後に核心に触れて、「じゃあ、君たちはどう生きるか?」と社会に問いかけたかったのではないか。この問いかけ自体に、宮崎さんの積年の思いを感じる。これっだけ仕事して、これっだけいろんな事を学んで、これっだけ真剣にアニメーションや漫画に取組み続けてきた人の作品、って思うと、こみ上げてくるものがある。観られて良かった。

 

原作

 原作の方の「君たちはどう生きるか」を読んだ。どんな原作か気になった。大変感動した。読んで良かったと思える一冊だ。と言ってもあれから数日経った。呪文のように読んだ幸福と感想が湧いてくる感覚はもうないが、それでも映画解釈のためとか関係なく、純粋に「読んで良かった」と思わずにはいられない。