スピリチュアルを生業にして
自分の本質で生きると決めた頃
『揺れないこと』が良いことで
穏やかであることが
スピリチュアリストである上で
宇宙と繋がり周波数が高く
より良いスピリチュアリストである条件で
感情的ではなく
全てに対して思慮深く許容した姿が
スピリチュアリストである。
みたいな呪いにかかっていた。
私は感情的な人間だ。
感情的が生きすぎている人間だ。
感情の陰陽がハッキリしている人間だ。
私はそんな私が大嫌いで
私はそんな私が苦手だった。
スピリチュアリストになったら
みんなが私に言った。
『スピリチュアリストなんだから
泣いちゃいけない』
『スピリチュアリストなんだから
怒っちゃいけない』
スピリチュアリストなんだから。
でも、私は泣き虫で怒りん坊。
心が揺れる。
揺らしたくないのに
揺れる。
あぁ、私はスピリチュアリスト失格だ。
だってどんなに向き合っても
泣き虫だし怒りん坊なんだもんな…
今思えば
私がそんな私を否定しているから
そんな私を変えたかったから
そう聞こえていただけなんだろうなと
思うのだけれどね。
『自愛』
それと向き合う流れの中で
様々な場所で出逢ってきた
神様や宇宙人が
私の考え方を変えていった。
『自然の中に全ての答えがある』
私は悩む度
自然の中に身を投じた。
『なぜ私は揺れてしまうのでしょうか…』
すると神様は高笑いして
『自然を見ろ。
揺れないものなどあるか?
一定で変わらないものなどあるか?
揺れていて自然なのだ。
ただし、軸がなければ
揺らされ過ぎて根本まで乱されてしまう。
軸がしっかりとしていれば
揺らされても乱されない。
軸とはなにか?
それは神や宇宙への信頼
自分への信頼
積み重ねて来た日々の暮らしへの信頼。
揺れまいとするから
揺らされるのだ
揺れて自然なのだと平気でおればよい。
揺れてこそ自然
揺れてこそ人間である
醍醐味なのだから。』
そう私に教えてくれた。
その日から私は
泣き虫で怒りん坊な自分を許した。
揺れる自分を許した。
自信のない自分も
不安や心配になる自分も
それで良いよと許した。
揺れまい揺らされまい
とするのを止めた。
恐かった。
誰かに
『スピリチュアリストのくせに』
と言われるんじゃないかと
でも私は神様の言葉を信じて
そのまんまの自分を許した。
揺れまい揺らされまいとしていた時は
揺れることばかり起きた
泣くまいと思う程
泣きたくなることが起き
怒るまいと思う程
怒りたくなることが起きた。
まるで
在ると認めろよ‼️
そう叫ぶように。
揺れても良いと許したら
揺れる自分を俯瞰できるようになった。
揺らされて揺れる自分を俯瞰すると
大事なことが見えてくる
揺らされれば揺らされる程
大事なことが見えてくる。
私の心は平気で穏やかになった。
悲しみに揺れても
怒りに揺れても
乱されることなく
飲み込まれることなく
在れるようになった。
でも、今もたまに
乱されたり
飲み込まれることもある。
その瞬間自分を見失う。
しかし、ハッと我に返り
客観視して
あぁ、疲れすぎていたなと反省する。
今地球は大きく揺れている。
イメージして欲しい
大きく揺れる船の中で
揺れまいとあれこれ必死にするのと
揺れるもんだと許容して
あれこれ工夫して揺れを楽しむのと
どちらが揺れに
乱され飲み込まれないだろうかと。
熱心なスピリチュアル信者程
清らかに見せたその内側が
腐っていたりする。
熱心なスピリチュアル信者程
許容しているようでいて
批判的で差別的で悲観的だったりする。
熱心なスピリチュアル信者程
選民思想に取り憑かれ
雲の糸を必死に掴む。
そのスピリチュアルは本当に
あなたを幸せにしていますか?
大概私の言うことを
信じてやる人は少ない。
皆揺れないことを求めるから。
でもハッキリ言う。
揺れることを許せば許すほど
そのまんまの自分を許したほど
『喜び事で変われる』のだと。
ジャッジを手放せた方が
人生は楽になる。
それでもジャッジをしたい
自分も許したら
何故ジャッジをしなきゃ居られないのか
俯瞰して向き合える。
そうしたら
あなたをジャッジしてくる人も
ただの恐れる弱い人なのだと
揺らされても乱されずに俯瞰できる。
そしてこういえば良い
『あなたは何を恐れているの?』と
そして笑えば良い
『そんなん知ったこっちゃねぇ』と。
これから揺れは強くなる。
揺れまいとすればする程揺らされ
足元がおぼつかなくなる。
揺れを逆手にとり
踊れば良い。
踊る阿呆に見る阿呆
同じ阿呆なら
おどらにゃ損損
どこまでいっても私達は
悟れない未熟で愚かな阿呆なのだから
悟ったふりも利口なふりもしなくて良い
ただ楽しく踊れば良いだけだ。

