先月、浦和フィルの指揮者が見舞いに来た際、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」のDVDを4種類持って来て下さった。


 ①ムーティ/ウィーン国立歌劇場Orch.、演出:ロベルト・デ・シモーネ
 ②マッケラス/プラハ国民劇場Orch.、演出:ダヴィト・ラドク
 ③ハーディング/マーラー・チェンバーOrch.、演出:ピーター・ブルック
 ④ベルトラン・ド・ビリー/ウィーンフィルハーモニーOrch.、演出:クラウス・グート

 

全2幕、約160分のオペラをゆっくり堪能できる機会はそうない。
どれ早速、楽しませていただこう。

DVDをプレーヤーにセット!


点滴がつながっていると、途中であれこれ処置が入ったり、寝てしまったり、なかなか連続して鑑賞というわけにはいかなかったが、細切れながら各々数回ずつは観たか。

私はこれまで、ドン・ジョバンニは名作と知識としては知りつつも、その“不道徳”な内容と、ニ短調の暗いイメージが自分の中で先行してか、「フィガロの結婚」「魔笛」に比べればあまり鑑賞してこなかった。
実演を観たのも一度だけ。10年ほど前、北とぴあで、古楽のオケがステージに乗った舞台形式だった。
舞台形式といっても衣装も字幕も演出照明もある本格的な上演だった。
結婚式の場面や晩餐の場面で楽隊がBGMを奏でるシーンでオケ奏者も楽しそうに演じる側に加わるところなど、観て聴いて楽しいオペラだなと感じたことを記憶している。

 

〇はじめにおさらい:

ドン・ジョバンニはどんなオペラだっけ?

(文中、【 】数字は、後述「見どころ比較」に対応)

 

およそオペラのストーリーには不道徳、荒唐無稽なものが多いが、本作も例に漏れない。
一行で書けば、「プレイボーイたるドン・ジョバンニ(ドン・ファン)が自らの悪行によって地獄に落ちる物語」。

全ては一日の中の出来事(この時代の演劇の基本)で、冒頭いきなり、貴族の娘(ドンナ・アンナ)に夜這いをしかけ、見とがめた父親(騎士団長)を殺害してしまう。

 

 <えええーっ!まだ序曲終わってたったの5分、刑法に触れる犯罪行為2件かよ!> 

 

現場を離れる道すがら早速美女を発見して口説きそうになるし。しかしそれは以前捨てた婚約者(ドンナ・エルヴィーラ)【1】。
結婚式の一団に会えば、あろうことか新婚の花嫁(ツェルリーナ)を口説く【2】。
さらにはエルヴィーラの美しい召使をマンドリン片手に口説くし【3】、従者(レポレッロ)の妻も口説く。

 

 <さすがはプレイボーイ。口説きまくるぅ。恐れ入る>

 

晩餐にはドン・ジョバンニが朝に殺害した騎士団長の石像が現れ、地獄に落とされる・・・。

ウィーン初演版はここで幕。プラハ再演版では「これぞ悪人の結末」と登場人物が全員で歌う大団円【4】が追加され幕となる。

 

〇4本のDVDの特徴

 

①はオーソドックスな舞台。演出も素直な解釈。
衣装に工夫が凝らされており、物語の進行とともに中世の貴族の衣装から現代風の衣装まで変えていく点が特徴。

②もオーソドックスな舞台。やや小ぶりなステージでコンパクトに進行する。
キビキビした演奏も心地よく、私は個人的にはこれが最も好きだ。

③は舞台装置を可能な限り簡素化し、時代設定を現代とした演出。
カラフルな縦横の棒や椅子だけの舞台装置。それらが建物を表したり、門になったり。省エネ省コスト。

④は2008年ザルツブルク音楽祭のライブ。クラウス・グートによる斬新な解釈。
舞台装置は終始、夜の森の中。時代設定は現代。
モーツァルトが書いたドン・ジョバンニの音楽とポンテの脚本をそのまま使いつつも、斬新すぎる解釈のおかげで、演劇的に別のものにさえ見える。面白い。
なお、最後の大団円のない、ウィーン版による上演。

 

〇見どころの演出に着目しての演出比較

 

前述の通り、荒唐無稽なストーリー自体、突っ込みどころが満載なので、その突っ込み箇所をどう処理してるかに着目して、演出の違いを比較してみた。
演奏についてのコメントは敢えて割愛。

面白いことに、その「突っ込み箇所」にこそ、ことごとくこのオペラの有名なアリアが割り当てられている。

これこそが、モーツァルトがこのオペラに仕組んだ面白さだ。そこを解き明かしていくのは楽しい。

 

【1】以前捨てた婚約者(ドンナ・エルヴィーラ)にばったり鉢合わせ~カタログの歌

 

エルヴィーラは、自分を口説いてその気にさせて捨てたドン・ジョバンニを恨んでおり(未練があり)なじる。
バツの悪いドン・ジョバンニは、従者レポレッロに、エルヴィーラの相手を任せる。
空気が読めないレポレッロは、あろうことか、有名な「カタログの歌」を歌って、エルヴィーラを慰めようとする。

 「これが私の主人が愛した美女たちのカタログです!
  イタリア640人/ドイツ231人/フランス100人/トルコ91人/スペイン1003人」

 <凄い~。病気は大丈夫?というのはさておき、
    神経逆撫で。慰めになってないし。
    それにしてもひっでぇ歌詞。
    さらに「スカートさえはいてれば」と続くのは、
    いくらモーツァルト先生のオペラとはいえ、
    女性の扱いや公序良俗的にどうとか
    騒ぎ出す人がいないか??
    上演観た時も、字幕読みながらもヒヤヒヤ>

 

さて、このシーンを演出的にどう扱うのか。
歌うのはレポレッロだから、その間、エルヴィーラはどんな顔をして何をしていればよいのか?ここが見どころ。
ただ仏頂面・しかめっ面を続けるには歌の尺が結構長く演劇的に間が持たない。

①では古典的な解釈に従い、奇を衒わず、エルヴィーラはほぼ仏頂面で動きなし。
しかし豪華な舞台装置と衣装が醸し出す正統的なオペラならでは雰囲気の中、レポレッロが滔々と無神経な内容の歌をユーモアたっぷりな動きで歌うので、視点はレポレッロに集まり、観ていて違和感は感じない。
歌い手以外がオペラ空間的に金縛り、という状況も悪くない。

②では、エルヴィーラはレポレッロの歌詞に応じて反応したり、カタログ本を奪って読み始めたり投げ捨てたりと芝居を加えた演出で自然に見せている。

一方、③④の時代を現代に移した新解釈となると、全てのシーン、動き、節回しに、新解釈ならではの意味づけを求められることとなる。

③では、エルヴィーラはリスト(カタログ)に興味を示しつつも、嫌悪、拒否の意思を示す。
レポレッロはそんなエルヴィーラの気持ちを汲もうともせず、主人が如何に沢山の女性と付き合っているか、そのリストを自分こそが管理している、と得意気。
このDVDは2002年の上演を収録したものだが、さらに現代であれば、さしづめ、このリストはスマホかタブレットで管理されている、という演出になることだろう。

④では全く違う位置づけで楽しめる。
ドン・ジョバンニに指示されてエルヴィーラの相手をさせられたがどう対処して良いか途方に呉れ、バス停(そういう舞台設定なんです)の時刻表を指さして『これがカタログです』と言ってのける。
つまり口から出まかせ、苦し紛れの即興、という解釈となっているのだ。
エルヴィーラも当然そのことが判っているから、もはや、レポレッロの歌など聞いていない。
「何つまんないこと言ってるの」の体で聞き流しているだけ。
この解釈と演出は大変に面白い。これならば、不道徳な歌詞のインパクトも和らぐ。

 

【2】ドン・ジョバンニ、結婚式の一団に遭遇。あろうことか新婚の花嫁(ツェルリーナ)を口説く

 

 <はい、恐れ入りました。
    さすがドン・ジョバンニ。
    口説くほうも口説くほうだが、
    わずか3分間一緒に歌っただけで、
    andiam(行きますわ)
    と着いて行こうとするツェルリーナも何なのよ~。
    しかも、直後には新婚の夫に
    「悪い私をぶって」と甘えてご機嫌取りするし。
    どんだけしたたかななんだ~?>

 

モーツァルトは、この状況下で3分で口説き口説かれる業を、きっちりと音楽に仕込んだ。
天才だからこそ書ける筋立てと音楽。
この二重唱「お手をどうぞ」は第一幕の音楽の中でも白眉の美しい音楽だ。
オペラ実演者は、この2重唱の3分の中で起こる2人の感情の変化と駆け引きを表現することを求められる。

台本を素直に読めば、身分の異なる農民の純朴な娘が、貴族に熱烈に口説かれて舞い上がり、思わずOKの返事をしてしまう、となる。

古典的な解釈の①②はそうした演出だ。
特に②はツェルリーナ役(アリツェランドヴァ―)小柄で可愛らしい衣装、可憐に演じている。
しかし、この演出でも、見ようによっては、したたかなツェルリーナが、わざと純朴そうした演じていると解釈することもできる。
その解釈は観客側に委ねられているのだ。

一方、現代風の新解釈の③④ではそこに意味づけを与えている。

③では解釈自体は古典的なもの。
純朴なツェルリーナを、百戦錬磨のドン・ジョバンニが得意の口説き業で落とす、という演出。
ついにandium(行きますわ)と応えてしまうツェルリーナには、思わず「おいおい」と突っ込みたくなるし、
そこにエルヴィーナが乱入して思いとどまらせるシーンは筋を知っていても笑ってしまう。
昼のTVドラマのよう。テンポよく絡み合った演出だ。

④ではもはや、ツェルリーナは純朴などとんでもないしたたかさで、最初から、貴族と浮気する気、満々。
大人の会話の駆け引きが楽しめる。

 

【3】ドン・ジョバンニはここまでの事件にも全く懲りず、エルヴィーラの召使をマンドリン片手に口説く

 

カンツォネッタ「窓辺に出でよ」はこのオペラで最も好きな曲だ。
美しい(はずの)召使は舞台に登場せず、マンドリン片手に甘いセレナーデで口説いた結果も明確には提示されない。
ここでは台本にある重要な小道具であるマンドリンの扱いに着目して鑑賞。

①では、小道具としてマンドリン持参。
演技上の演奏はもちろんエアで、音はピットから聞こえる。ドン・ジョバンニの目線は客席に向けて固定で、美しい召使はついぞ登場せず。

②では、ドン・ジョバンニは、マンドリンを持たずに登場。音もピットから聞こえる。
美しい召使の姿は舞台奥の薄布の向こうにぼんやりと見えている演出。

③では、貴族たるドン・ジョバンニが、窓辺でセレナーデを歌うためにマンドリン奏者をわざわざ雇った、という演出になっている。
マンドリンを抱えた奏者が新たに登場。(この奏者がとても上手で、4枚の中でも演奏としては最高だ)
女性を口説くにはこうしたマメさが重要、ということか。妙に納得。

④ではマンドリンは音以外は全く登場しない。
ドン・ジョバンニが歌うセレナーデは、もはや召使を口説くためのものではなく、
世の全ての愛すべき女性に向けて歌っているようにさえ見える演出で興味深い。

 

【4】「これぞ悪人の結末」と登場人物が全員で歌う大団円

 

ドン・ジョバンニが地獄に落とされるという劇的な幕切れの後、プラハ版では登場人物が皆出てきて、大団円となる。

 

 <ん?いまさっき、主人公が地獄に落ちたよね???
    なのに、他の人物が
    「さーて、家に帰って飯でも食うか」
    「悪人の最期はこんなものさ、はっはっはっ」
    これにて一件落着。幕。
     うーん、観客置いてけぼり?
     話に着いていけませーん、に
     ならないのかなあ>

 

ハリウッド映画であれば、この「地獄落ち」はCGを駆使した大スペクタクルのクライマックスとなるだろう。
このオペラでは主人公ドン・ジョバンニはさほど極悪人としては描かれていない。
あっさり「あれーっ」っと地獄に落ちていく。

モーツァルトのドン・ジョバンニに対する視点は極悪人ではなく、むしろ、愛着が込められている。

人間とはこういうものさ、と。

水戸黄門のように、悪人善人が明確なステレオタイプで描き分けられていない。
私は、この大団円は、本篇とはトーンを変えて、あっさり仕上げるべきと思う。その点を見ていく。

①②では、歌手たちは基本的に客席目線で淡々と歌い、あっさりと仕上げて、明るく幕。
これが古典的なオペラの終わり方。
その雰囲気を愛する聴衆には、やはりこのほうが、劇場を出た後のディナーが美味しいのではないだろうか。

③では、現代的解釈である故からであろう、大団円の場面にも一つ一つ、歌詞に応じた演技をつけている。
それはそれで興味深いが少々間が持たない。
それは何故か。おそらく、セットが簡略化され過ぎているため。
直前の「地獄落ち」で起きたことの悲劇性はあまり強調されず、
観客が何が起きたのか呆気に取られているうちに、それとは見た目が余り変わらない大団円の明るい場面へと続くからではないか。
さらに、「悪人の末路はこのようなもの」と全員が歌う箇所の演出は、
ドン・ジョバンニと騎士団長がベンチに並んで座っており皆が諭して聞かせる、という演出になっている。
ここでの二人の表情は意図不明だ。むしろ、DVDの映像では直前の演技で大汗かいてるのが大映しなってしまい、むしろそちらが気になる。

④はウィーン版によるため、大団円はない。
ドン・ジョバンニは、騎士団長が地面に掘った墓穴に落とされるという幕切れだ。
この演出では、朝の夜這いの決闘の際に騎士団長に銃で反撃されてお腹に傷を負い終始痛みに耐えている、という斬新過ぎる設定解釈になっている。
レポレッロに鎮痛剤(麻薬?)を注射してもらうシーンもある。
ドン・ジョバンニは、騎士団長に墓穴に落とされたのではなく、むしろ、観念して自らの意志で墓穴に入ったのかも知れない。そうも見えた。

 

〇あらためて

4本のDVDを見終えて改めて感じたこと。


ドン・ジョバンニは、水戸黄門のような単純な勧善懲悪のオペラではない。
人間、良いところも悪いところもあらーな、
判っちゃいるけどやめられない、それが愛すべき、人間のサガだ。
そのことをモーツァルトはこのオペラで表現したのだ。
今更ながら、このオペラの魅力を理解し、楽しんだ。

ストーリーの突っ込みどころにこそ妙味がある。
オペラ鑑賞は楽しい。舞台を造るのも楽しそうだ。
また退院後の楽しみが増えた。