エチオピア・ケニアの国境にある街モヤレからナイロビまでは2つの行程に分けられる。一つ目はモヤレからイシオロという街までの行程。この間は、少なくとも私が訪問した1994年当時は、公共の交通機関がなく、移動手段は物資を輸送するトラックのみ。運転手と直接交渉し、いくばくかのお金を払って乗せてもらうスタイル。また、この行程は路面が舗装されていないのだが、泥んこでぐちゃぐちゃになっているところもある。なかなかスピードが出せないばかりか、転倒してしまいそうな時もある少しヒヤヒヤする行程だ。その距離は東京・大阪間(500km)くらいだと思われる。順調だと一泊二日くらいでイシオロまで辿り着くこともあるらしい。比較的乾燥した大地に低木や草の茂みが点在するだけの景色が続くやや退屈な風景である。

少し二つ目はイシオロからナイロビまでの行程である。この間はバスがあり、道も舗装されている。朝イシオロを出発するとバスは快調に飛ばし、午後にはナイロビだ。

 

 

まずは早朝モヤレでのトラック探しである。といっても私が探した時は選択肢がなく、牛を輸送するトラック一択であった。長さ5メートルほどの荷台が檻になっていて、そこに牛を10頭近く横向き(つまり進行方向と垂直)に詰めて並べて載せるというものである。トヨタのなかなか走りそうなトラックであった。乗組員は運転手に加え、牛追いの少年4-5名、さらに乗客は私を入れて3名。外国人は私だけである。運転手はインド系のケニア人で大卒の青年であった。英語のコミュニケーションも全く問題のない大卒の青年でもなかなか仕事がないらしい。私のような外国人を乗せると万一事故があった時に面倒なことになるということで(実際にそのように言われた)、あまり歓迎していない運転手の様子が見て取れたが、ここで置いていくのは気の毒と思ってくれたのか、とりあえずは受け容れてくれた。牛追いの少年たちは無口な田舎の少年たちで、言葉の壁もあったせいもあるが、私とはほとんど接点がなかった。

 

トラックでの移動は散々エチオピアでやったので大したことはなかろうと、最初はたかをくくっていた。が、今回は事情が少し違っていた。

■まず、エチオピアでは運転席の屋根の上に座ってのんびりと風景を観ながら過ごしていたのだが、今回は屋根に荷物が積載されていて、ここに座ることはできなかった。また荷台は金属の格子でできた檻なので、座るところがなく、格子を掴んで立ったままの状態でいる必要があった。手を滑らせると落下してしまうので気が抜けない。特に道路が舗装されていないので、揺れも激しく、格子はしっかりと握り続けておく必要があった。この状態で何日も過ごすのはなかなかつらい。

■さらに、暑いのにも参った。ケニアもエチオピアと同じく比較的標高が高く、首都ナイロビの標高も1500メートルを超える。しかしながら、モヤレからイシオロまではちょうど標高の低い地域であり、大変蒸し暑く、日陰のないトラックでの移動はこれまたつらい。そして、このような暑さもあり、この旅で何度となく経験した喉の渇きと闘わねばならなかった。

■また、時折スコールのような激しい雨が降り、これも逃げ場所がないのであるが、雨で身体が冷え、雨が止むと太陽にじりじりと照らされてと、何度も繰り返していると体力・気力が奪われていく感じがあった。

■加えて、乾いた路面であれば良いが、時折水をふんだんに含んだやわらかい泥が20~30センチくらい堆積しているような路面状態のところがあるのだが、このようなところに差し掛かると、まず運転手が車を停めて、路面に降りて状態を確認し、なんとなくコースを決めた後、また運転席に戻って勢いよく車を走らせる。泥で大きく滑ったり、転倒寸前まで傾くこともある。(いよいよ転倒しそうな時は、握っている格子をパッと放してトラックから飛び降りればよく、この時ばかりは逃げ場のない普通のトラックやバスでなくて良かったと思った)。

 

このような調子なので、以前のパキスタンでの灼熱の鉄道や、スーダン行きの巡礼フェリーの時のように、「時間よ早く経ってくれ」とばかり、5分ごとに腕時計に目をやるという、ストレスMAX状態の移動になった。乾燥した平坦な路面であれば、トラックは時速40-50キロ以上で走ることができるが、泥にはまるとかなり時間が取られてしまう。また、牛は時折檻の外に出してあげて散歩をさせなければならない。牛追いの少年たちが棒を振り回しながら「ウォーウォー」と独特の掛け声とともに、牛の全頭を檻の外に出すのに15分、散歩に1時間、嫌がる牛をまた檻に戻すのに30分、、、なかなか進まなかった。気が付くと、運転手も他の乗客も私も牛追いの手伝いをしていたりして、身体全体が家畜のニオイで燻製されていた。

 

(つづく)