エチオピアに入国して10日間あまり経ち、私は首都のアジスアベバに到着した。アジスアベバは大都市である。ウィキペディアによれば、私が滞在した1994年当時でも人口200万人以上、それから30年ほど経過した2023年には400万人くらいになっているらしい。今後も増え続け、西暦2100年ごろには3500万人を超える超巨大都市になるという予測もあるということだ。(日本の首都圏の人口が3700万人であることを考えると、これは大変な都市化といえる)。

 

アジスアベバでは飲み屋街にある安宿に2泊滞在。酔客の笑い声・怒鳴り声が夜遅くまで聞こえてくる環境であった。その間、ブラブラと散歩すること以外に、これといった観光をすることもなかったが、日本大使館に行って、何か月分かの日本の新聞を読ませてもらった。スーダンの首都ハルツームの日本大使館を訪れた時もそうであったが、日本人があまり行かないような国の日本大使館を訪れると、少し偉い人が「お話をしたい」といって部屋に通されることがある。ハルツームの時は、警察庁から派遣されてきたという男性が応対した。40代くらいだろうか。いわゆる外務省の外交官だけでなく、各省庁からいろいろな理由で在外公館に一定期間派遣されてくることがあるらしい。立派な執務室のようなところに通され、自身は窓を背にして設置された大きな机に座り、その机の前にしつられられた応接用のソファに私を座らせた。自身の身分などの自己紹介をしてくれたが警察庁ということ以外は良く憶えていない。私との会話と通じて私が不審な人間でないかチェックする意味合いもあったろうが、ハルツームでの自身の仕事や、やはり国は違えど同じ警察関係の人とはウマが合うとかいった他愛のない話もしてくれた。最初は偉そうな物言いだったが、私が無害な人間だとわかると終始にこやかに対応しようとしてくれた。アジスアベバの日本大使館を訪れたときは、50代くらいのおじさんが応対した。大学の教官の部屋のような、書類が雑然と積み重なった部屋へ通されて、自己紹介もそこそこに、どこから来て、これからどこへ行くのかと尋ねられたうえ、余計なことに巻き込まれないよう、くれぐれも気を付けてくださいと、一方的に注意だけされた。このような少し感じの悪い対応は、旅が長くなっているバックパッカーは時折経験するらしい。どこの国かは忘れたが「こんな国に何しに来たのだ。早く帰りなさい」と大使館の職員からあからさまに言われた人の話を聞いたことがある。たしかに定職も持たず、フラフラと海外を旅しては興味本位で危険地帯に行くような輩もいる。ただ、もう少しまともなバックパッカーであったとしても、海外を長いこと貧乏旅行する人の気持ちは公務員のような人種は分かりにくいかもしれない。

 

エチオピアからはケニアに南下する計画だ。アジスアベバの次の区切りとなる目的地はケニアの首都ナイロビだ。順調に行けば、アジスアベバから2泊ほどでケニアとの国境の街に到着し、さらに3泊ほどでナイロビまで行けそうだった。つまりあと一週間くらいでナイロビに辿り着けるかもしれない。ナイロビでは少しゆっくりしよう・・・。そんなことばかり考えていた。このとき12月になろうかとしていた時期だったので、日本を出てから10カ月近く経過していた。エチオピアはこれまにないユニークな国であり新鮮な驚きも多少あったが、旅はかなりマンネリになっていたし、心は少し疲れていたかもしれない。(かと言って日本に帰国したいわけではない。むしろ色々なところを訪れたことにより現れる、行き場のないマンネリ感という感じであった。これをこじらせてしまうと人生そのものに無気力になってしまうのかもしれない)。

 

アジスアベバを南に向けて出発するバスはかなり早朝のまだ暗いうちに出発。かなり肌寒かったと記憶している。道は舗装されていて、バスはそこそこ快調に飛ばす。地図を広げてみると、ひし形のような形をしたエチオピアのちょうど中心にアジスアベバがある。アジスアベバ以前、エチオピアの北半分を旅していた時は大地がカラカラに乾燥していたが、アジスアベバ以降、南部に入りはじめて、あたりの風景の緑が瑞々しく濃厚になった。宿に泊まりながら順調にバスを乗り継いで、3日目の午後にはヤベロという街に到着。ここからケニアとの国境まであと200Kmあまり。バスで半日の距離である。早く先を急ぎたかったが、エチオピアでは(少なくとも当時は)日暮れ以降バスを走らせることがなく、明朝の次のバスのためこの街で泊まる必要があった。バスが発着する広場の前に、シンプルながら清潔で居心地のよさそうな平屋の宿があったので、ここに泊まることにした。すると、なぜこんなところに?とばかり驚いたが、日本人の大学院生に出くわした。

 

(つづく)

 

↑エチオピア南部に入るとあたりの風景に緑が濃厚になった