歩いての移動の後は一日休憩し、再びヒッチハイクで移動を始めた。荷物を積載していない快速のトラックを捕まえることができ、ゴンダールという地方都市まで一気に辿り着いた。ゴンダールは400年ほど前から300年間くらいはエチオピアの首都であったという街である。ゴンダール城という宮殿と城門が世界遺産にもなっている。標高は2000メートルほどでエチオピア高原のヘソと言ってよい。エチオピア北部では、路傍に半壊の戦車などが打ち捨てられているなど、長きにわたった内戦の爪痕が残っているが、ゴンダールの街にも、戦車こそなかったが、着弾した痕なのか、街中のアスファルトにボコボコと穴が空いたままになっていた。(単なる窪みではなく直径50センチ、深さ20センチくらいの立派な穴である。着弾した痕であれなんであれ、このような穴が車両も通る道路の真ん中に放置されているのは街が少し荒んでいるからなのか)。ゴンダールから首都まではうまくヒッチハイクできれば2泊くらいで行けそうであった。

 

ゴンダールは久しぶりに街らしい街であった。街中は舗装され、4-5階建ての鉄筋コンクリートの建物はざらにある。人口30万というから決して小さくない街なのだ。ここに2泊滞在。いま思えばゴンダール城などをしっかり観光しておけばよかったと思う。この時は歴史文化を学ぶという意識が低すぎて、なんとなく街を散歩した程度だった。街の映画館で古いカンフー映画を上映していたのを覚えている。また、野菜不足であったので、野菜食を求めて探し回った。エチオピアに入ってからは、例のインジェラと、その付け合わせとしては牛肉の煮込みのようなものが多く、圧倒的に野菜が不足していた。だからといって身体に異常が起きているほどではなかったが、サラダや野菜炒めのようなものが食べたかったのだ。探し回った結果、街が一望できる高台のような場所にある外国人相手のホテルに辿り着いた。ここなら野菜炒めやサラダなどにありつけるのではないかと思ったのだ。ホテルに入ると、ロビーも広くなかなか素敵な施設である。私とSさんはTシャツと半パンに埃っぽいサンダル履きという出で立ち。あまり歓迎されていないのがホテルの従業員の態度からもなんとなく見て取れた。食事がしたいと伝えると、レストランに通されるも、他の客の視界に入らなそうな部屋の端っこのテーブルに案内された。なんでも良いので野菜をと注文すると、炒めたニンジンが皿に山盛りになったものが出てきた。上品に炒めてあり大変美味しかったが、ニンジンだけが山盛りの皿は見た目にも少し異様である。「お前らみたいな汚らしい客は馬の餌でも食べてろ」とでも言われているように感じた。これを食べたらさっさと帰れと言われそうだったので、言われる前にさっさと食べてレストランを出た。ちなみにお会計の時に渡されたお釣りは全てクチャクチャで汚くいお札だった(苦笑)。今思えば、よほど我々が営業妨害のような存在だったのだなと申し訳なく思う。

 

ゴンダールの宿ではラジオの電波が入ったので、夜はSさんが持っていたラジオを聞いた。言葉がわからないので音楽中心のチャンネルに合わせた。音楽といっても合唱のような普段聞かないジャンルであった。合唱の合間に説教のようなものがあることから、きっとキリスト教か何かの番組であろうか。ないよりはマシだったので流しておいた。今晩は久しぶりに水洗便所と水シャワーのあるまともな部屋である。ベッドもSさんと別々だ。あまり明るくないが部屋には蛍光灯もある。ベッドに寝転んでラジオをウトウトしながらと聞いていると、そのうち段々と電波が悪くなり、最後には「ややメロディーのある雑音」といった程度の音質になってしまった。それを聞きながらいつの間にか眠った。

 

ゴンダールでは2泊滞在し、首都アジスアベバに向けて出発した。引き続きトラックの背に揺られての移動であったが、ヒッチハイクではなく乗り合いのトラックである。少し大きな街であるゴンダールでトラックをつかまえようとすると、街はずれまで行く必要がありそうだったのだ。乗り合いのトラックは街の中心の広場から出発である。

 

この日の午後、Sさんとは別行動をすることになった。私は最短で首都に辿り着きたかった。Sさんはもう少しノンビリと行きたいということで、朝ゴンダールを出発した乗り合いトラックがお昼ごろ到着した街に滞在することにして、私は午後も移動を続けた。このあたりから首都までの道はしっかり舗装されていた。トラックは平均時速60~80キロくらいで走り、一泊二日くらいでアジスアベバまで着いてしまった。

 

↑牛追いの少年。ヒッチハイクでの移動の途中にて

 

(つづく)