シリアからヨルダンへ入国。ヨルダンはトルコほどではないが、イスラム教の国でありながら、かなり世俗的な部類に入といってよい。街の女性は相変わらず頭をスカーフで覆っているが、雑貨屋ではビールなども普通に売られていたりする。(ちなみにオランダのアムステルビールが売られていた。)また、これは世俗的であるかどうかとはあまり関係ないが、シリアと同様に、ヨルダンでも夜になると人が出歩く。理由は単純。昼間が暑すぎるので、日が暮れたころに人々が街に繰り出すのである。これは人々の素行が良くないということではなく、むしろ治安が良いことを証明するような現象だ。日本のように残業をしているような人はほとんどいないようで、街中は店舗の電飾や街灯でとても華やかになり、老若男女が楽しそうに街をそぞろ歩きするのである。

 

私は首都アンマンにある5階建てくらいの宿の屋上のドミトリーに5泊ほど滞在した。ここは屋上だけあって眺めがよい。たいした景観ではなかったが、アンマンの乾いたアイボリー色の街並みが見渡せた。このドミトリーには、日欧米からのバックパッカーが半分いて、もう半分は地元の人と思われ、皆一様に壮年の男性だ。何日かすると地元と思われた人々はイラクから戦火を逃れてきていることがわかった。私が訪れた時期に、米軍がイラクを攻めていた時期で、その煽りを受けてアンマンに避難しているのであった。話してみてわかったが、皆それなりに流暢な英語をしゃべり、それぞれが技師だったり、一定の教育を受けている人のようであった。アンマンで仕事をしているのか、昼間は出払っていることが多かった。また、皆サッカー好きのようで、ちょうどサッカーのワールドカップの予選をやっていて、リードしていた日本がイラクにロスタイムで点を入れられ引き分けになり、ワールドカップ出場を逃がしてしまったという、俗にいう「ドーハの悲劇」があったタイミングだったのだが、あるイラク人は「どうせイラクは勝敗にかかわらずW杯出場は無理だったのだから、ここは親愛なる日本人を勝たせてW杯に行ってもらうべきだった。なぜイラクチームはロスタイムに点など入れたのか。同胞として恥ずかしい」と日本人の私をつかまえて真剣に言っていた。一般的にアラブ人は親日的だと言われているが、このような具体的な好意を示してもらえたのはとても嬉しかった。

 

アンマンでは日本大使館を訪れた。日本からの手紙・小包の受け取りと、日本の新聞をまとめて読ませてもらうことが目的である。ただ、一度目に訪れたときは休館日であった。アラブ地域はイスラム教により金曜日が休日である。アンマンの日本大使館はアラブ流と日本流の双方を取り入れて、金土日の週休三日である。そもそも仕事が忙しくないのだろうとは思ったが、大胆に週3日休む良いとこ取りにするとは。日本の役人らしからぬちゃっかり者がいたものだなと思った。
日本からの手紙には母親からのものもあった。封書の中にトラベラーズチェックが数万円分くらい入っていた。署名欄が空欄だったので、使用者を選ばない(つまり誰でも使える)という状態なのであるが、だとすると現金と意味は同じである。普通の国際郵便で数万円を裸で入れるとは大胆だなと思った。が、とても嬉しかった。費用は計画以内にきちんと収まっていたので、お金の心配は全くしていなかったが、予期せぬ臨時収入があると、少し贅沢もできるし、気持ちに余裕も生まれる。この余裕がとても精神衛生上良い。

 

ちなみに、私は手帳(ウィークリー手帳)を持ち歩いていて、旅の13カ月の間ずっと日々使用した費用を記録していた。おおむね平均2000円/日を想定していて、1年で75万円を予算としてトラベラーズチェックと現金を持って行ったが、インドなどでは宿代と食事で一日300円くらいのことも多く、飛行機に乗ることなく陸上(時折海上)を2等・3等席で移動するため、かなり予算には余裕があった。(結果として、飛行機代やお土産代など、すべての旅費が13カ月で55万円で済んだ。これは一日あたり約1,400円ということである)。このように費用を毎日文字にして記録しておくという行為はインパクトがある。状況を可視化することで、どんぶり勘定や感覚ではない事実の把握につながるし、節約する行動を確実に促進する。他方、少し強迫観念めいて費用を気にしすぎてしまったり、今思えばもう少しお金を使っておくべきだったかなと思うこともある。博物館やそのほかのアトラクションなど、少し入場料の高いところは問答無用で回避していた。他方で、安く済ますことは単なる忍耐だけでなく、代替案を探す工夫をしようとすることにつながるし、その過程でいろいろなことを学んだと思う。なので若いときの旅はこれでよかったと思う。物理的な忍耐など若いときしかできない。なお、食事の量だけは絶対に我慢しなかった。量の制限は本末転倒である。
ちなみにこの手帳の裏表紙には「旅は無限」とサインペンで書いていた。これは若い私にとっての旅の標語で、「長期貧乏旅行は無限に自分を成長させる」という意味である。この旅を経験することで、見聞も広がり、コミュニケーション能力や交渉力・度胸もつき、暑さ寒さだけでなく孤独に耐える力だってつき、長い人生を乗り切るための色々な生命力のようなものが、それこそ無限につくと本気で思っていた。結果、それは功を奏したか?答えはYesであるが、自分にとって最も良かったのは、知識や能力を得たことではなかった。確かに、見聞はとても広くなったと思う。やはり直接色々な文化に触れるのは途方もなく大きな刺激であるし、それは訪れた土地だけでなく、変人も多い他の貧乏旅行者との交流からもあった。また、何か物事を断ることさえ苦手だった私にとって、新しい街にやってきて宿を探す際、見学させてもらっては気に入らないものを断り、より良い・安い宿を探し回ることさえ、大きな進歩であり、実生活での自分の行動も確かに変わっていった。ただ、そのようなことだけでなく、他の学生が順調に就職活動して順調に卒業していき、置き去りにされるような気がしたとしても、自分がやろうと思ったことをやり通した、という「私は私」という自分に出会えたことだったり、「他の人がなかなかやらないことをやった」という、小さくも自分としてはちっぽけとは片づけられない誇りを得られたことが、自分にとっては一生モノのかけがえのない経験だったのかなと思う。

 

アンマンに5泊してイスラエルに向かった。

 

(つづく)