チトラルからペシャワールに戻ると、パキスタン西部のクエッタへ向かう鉄道のチケットを買った。今ではなくなってしまったかもしれないが、少なくとも当時は外国人割引(地元パキスタン人の半額)があり、2泊3日の2等寝台が2000円くらいだったと記憶している。ちなみに当時パキスタンの隣の中国の鉄道では、外国人用の割り増し料金(中国人民の2倍)があり、いろんな考え方があるものだなと思った。

 

 

この長距離列車は、その度を越した暑さにより、大変印象深い移動となった。列車は夕方発。クーラーなどない2等の寝台でもあり、始発のペシャワール駅で乗り込むときはペットボトルのミネラルウォーター(1.5リットル)を2本くらい持ち込んだ。暑くて喉が渇くことを予想してのことだが、2本も持ち込むのは少し用心深くあったつもりであった。ところがこれが全く当てがはずれた。日が暮れても気温が下がらず、列車の窓から入ってくる風は一晩中しっかりと暖かく、持ち込んだミネラルウォーターは明け方までになくなってしまった。予想より早く水が無くなったが、停車した駅で買えばよいと思ってたかをくくっていた。が、どの駅もジュースは売っているが水が売っていない。陽はどんどん高くなり、気温もますます上がる。仕方ないので、どの駅でも売っているパックのマンゴージュースを停車するたびに2-3本買い続けた。しかしながら10本以上飲んだ頃には、のどの渇きは全く癒されないまま、これ以上身体がこのジュースを受け付けなくなってしまった。口のそばまで持っていっても、激しい心理的な抵抗に遭い、どうしても口にする気になれないのである。どうやら液体であれば良いというものではないらしい。喉が渇いているのに水以外の液体を全く受け付けないという心情を生まれて初めて味わった。

 

この後、益々気温が上がった。チトラルで観た天気予報のとおり50度を超えているのだろうか。列車の外はほぼ砂漠といってよい乾いた風景が果てしなく続き、まさに灼熱地獄の様相を呈していた。全開に開け放たれた列車の窓からは、熱風が容赦なく社内に吹き込んできて、まるで絶え間なくドライヤーの風を身体中に浴びているような気分だった。ちなみに列車は満員。周りにいる乗客もさすがに暑さでグッタリしている人も多かったが、床に座り込んで額に汗をかきながら賭けトランプに興じている奴もいた。暑さでフニャフニャになった紙幣が膝のそばに無造作に転がっている。早く時間が経過することばかりをひたすら願って、気が付けば腕時計を5分毎に確認していた。相変わらずミネラルウォーターはどの駅にも売っていない。喉の渇きはいよいよ深刻になってきたのか、顔がしびれ始めてきた。

 

しばらくして、駅に停車する際、水売りの少年らが列車に乗り込んで来るようになった。水売りといってもミネラルウォーターではない。ブリキのバケツに水を張って氷をぶち込んだだけという水である。サービスのつもりか、水になにやら混ぜ物をしているようで、赤い色と石鹸のようなニオイが付いている。1ルピー(当時の約3円ほど)払うと、少年は無言で手に持ったコップでバケツから水を汲み、そのまま手渡しでコップを寄越すスタイルである。もちろんコップは使いまわしである。そんな水でも大好評であっという間に売り切れになった。私としては、この水を飲んだら確実に下痢になるなと思ったが、2-3人目の水売りの少年が乗り込んできたときに、ついに我慢できずこの水を買った。一杯だけなら良いのではないかと。どんな味がするだろうと飲んでみると、思いのほかあっさりと無味であった。少し救われた。ただ、二杯目を飲む勇気はなかった。この酷暑で下痢になったら目も当てられない。

 

そうこうしていると、周囲に何もないあるド田舎の駅に停車すべく、列車がスピードを緩め始めた。やがて駅のホームに滑り込み、ホームを進み続ける列車の中から外を見まわすと、ド田舎ゆえか売店などは見当たらないが、なんと水飲み場が通り過ぎたのが見えた。もう「生水は下痢の心配が、、」などと言っている余裕はなかった。私は乗っていた車両の端にある出口まで走っていった。パキスタンの列車は扉を開きっぱなしにして走るが、停車前にいよいよスピードを落とす段になって、私は少しよろめきながらもエイやとホームに飛び降り、そのまま一目散に水飲み場まで走っていった。列車はまだゆっくり動いていたが、私と同じようなことを考えていた何百人もの乗客が、弾けるようにホームに飛び出してきて、水飲み場をめがけて走った。

水飲み場の蛇口はわずか3-4個ほど。皆同じようなイスラム服の出で立ちで、髭もじゃで大柄のパキスタン人の群衆が一斉にホームを駆けていく非日常な様子は、異様でもあり壮観でもあった。(私の中では、この場面がスローモーションで記憶されている。笑)水飲み場では蛇口の奪い合いで喧嘩になるかなと一瞬思ったが、なかなかどうして皆笑顔で嬉しそうに水を飲んでいた。また、私が日本人だとわかると順番をゆずってくれた。私は頭から水をかぶって、水を飲んだ。本当は腹がガボガボになるまで飲みたかったが、後ろに待っている人がたくさんいたので、ある程度で順番を変わった。

 

その後、日が傾くにつれて多少気温は下がったが、やはり暑いままで寝苦しい2泊目の夜を迎えた。その晩に水をどのように調達したか記憶にない。食事はしていなかったのではないかと思うが、これもよく憶えていない。ただ、あと一回夜が明ければ涼しい午前中に終点のクエッタに着くから、それまでの辛抱だと言い聞かせて過ごしていたことを記憶している。また、夜中に橋の上という中途半端な場所で何時間も停車し続けて、「なんでこんなところで?運転士は眠ってしまったのではないか?」とイライラしていたことも憶えている。

 

夜が明けると、通りかかった車掌に、予定通り朝10時には終点に到着するかと尋ねた。すると答えは「列車はだいぶ遅れていて、クエッタ到着は夕方になる」とのことだった。それを聞いて、私は力が抜けてしまい、その場で崩れそうになった。昨夜も長時間停車していたが、やはりかなり遅れていたのだ。また灼熱地獄を味わわねばならないのか、と思うとゲンナリしてしまった。到着が夕方になるなんて気安く言ってくれるなよ。。。

 

ところが天祐があった。この日は曇り。暑くはあったが昨日ほどは気温が上がらなかった。また、列車は標高1600メートル以上のクエッタに近づくにつれ、次第に高度を上げ、昼過ぎにはすっかり涼しくなり、全く喉も乾かなくなった。助かったと思った。窓の外は相変わらず砂漠のような殺伐とした景観だったが、ゆっくり風景を眺める余裕も出てきた。そして夕方になって予定通り(?)列車はクエッタ駅に到着した。

 

(つづく)