大学1年生の20歳になったばかりの3月に初めて中国に行ってからは、海外の貧乏旅行に完全にハマりました。中国・昆明で出会った、ヨーロッパから陸続きで数か月かけて中国まで旅してきたというベルギー人の青年や、同じときに会った、たった10元の宿を値切ろうとしていたドイツ人の青年らの私へのインパクトは計り知れず、「こんなことができるのか!」「自分も冒険的要素のふんだんな貧乏旅行をするぞ!」と胸を躍らせました。30年以上前の1992年のことなので記憶は定かではないが、帰国してからすぐパキスタンとインドのガイドブックを買って、中国から陸路でインドまで行く計画を立てたと記憶しています。本当に一生涯のうち最もテンションの上がっていた時期のうちの一つと確実にいえるでしょう。
中国・パキスタン・インドの旅は、大学2年の夏休みに入った7月の下旬から一か月の予定で、再び横浜から上海までの船で出発することにしました。船は3泊4日。鹿児島の南をかすめ、東シナ海になると少し揺れだします。そして四日目の早朝、あたりの海は長江の河口から流れ出る黄土色に濁った水になり、少し川を遡って終着地の上海の港を目指します。川の両端は、古い農家の納屋があり、豚がその周りをウロウロしていたりと、日本ではない外国が目の前に現れると、上海港まで1-2時間の静かなウイニングランのような最後の船旅となります。
たしか朝の8時半くらいには上海に上陸したはずです。最初の中国の旅から4か月ぶりの上海ですが、2度目だけあって、多少心に余裕のある自分に気づきました。良く晴れた朝で、もうすでにかなり暑くなっていて、街を歩き始めるとすぐに汗をかき始めました。東京より少し暑いと思いました。まず目指すは上海の鉄道駅です。できればすぐにでも新疆ウイグル自治区のトルファンへの3泊4日の寝台のチケットをとって、同日のお昼出発の鉄道で上海を出発したいと思っていました。幸いすぐにタクシーを拾って駅に向かうことができ、思った通りのチケットを取ることができました。すぐチケットが入手できるのか、何日か上海で足止めを食らってしまうのか、まったく分からない中、あまりにも足止めをくらうと、旅行全体の日程にかかわることから、チケットについてはずっと気になっていたことから、チケットが取れてとてもホッとしました。

お昼ごろになるとアナウンスがあって、出発のホームに向かいました。(日本のように、ホームで自由に待つことはできず、アナウンスがあってはじめて指定のホームに行くことができる、というルールだったと思います)。ただ、ホームに行って自分の乗る車両を見つけるのに少し時間がかかってしまい、重いリュックを背負ってバタバタとホームを走り、やっと辿り着くと、鼻血が出てきたのを憶えています。若い頃、少し疲れ気味だったりテンションが上がると鼻血が出るクセがあったのですが、この時も、乗り込んだ車両のトイレの鏡に映る鼻血顔の自分を見て「ああ、少し気が張って疲れているのかな」と、なんだか少し情けない気分になりました。が、何はともあれ、無事に希望通り出発できることになりホッとしての出発。幸先が良い。やがて列車はゆっくりホームから動き出し、これから新疆ウイグル自治区のオアシスの街トルファンへの3泊4日の旅がはじましました。
(つづく)