みかんの花咲く丘  | 蒼空日記

蒼空日記

しあわせダイアリー

 この歌が私に染み込んでいる理由が今日わかりました。
お父さんは、よく口ずさんでいた。

今度この歌を歌いながら、
一緒に、亀石峠を越えよう。

幼い頃の思い出を探しに父親を誘いたくなりました。

 

 

以下は、数年前に父親が、教職員の退職互助会の機関誌に載せたものです。

 

みかんの花咲く丘

 

故川田正子の音楽葬が行われた時、教え子たちによる「みかんの花咲く丘」の合唱が厳かに響いた。
昨年一月、心不全のため亡くなった川田は、享年七十一歳だった。

八歳でデビューし亡くなる前日も、長崎県五島市で童謡を歌っていたので、まさに童謡一筋の人生だった。

同世代の私は、戦後ラジオドラマで川田が歌う「鐘の鳴る丘」の主題歌、「とんがり帽子」
が流れると、一緒に合わせて歌った事が懐かしい。
川田の「里の秋」「お猿のかごや」など、数あるヒット曲の中で、「みかんの花咲く丘」は、童謡の名曲中の名曲として、今日まで歌い継がれている。

歌手の由紀さおりは、「曲は八分の六拍子だが三拍子のように聞こえ、軽快で当時としてはお洒落な曲」と評している。

子供の頃、女の子たちがこの曲を歌いながら手の掌を合わせ「せっせっせ」と手遊びしているのを見掛けたこともあった。

孫が四歳になったばかりのとき、風呂に入りながら、この曲を教えたらメロディーはすぐに覚えてしまった。
軽快なこの曲は、誰もが魅了させられる童謡なのである。


「みかんの花咲く丘」の作曲者は海沼実で、川田が所属している「音羽ゆりかご会」を主宰していた。

戦後まもない、昭和二十一年八月、NHKラジオ「空の劇場」という番組が、東京と伊東を結ぶ初の二元生放送が、現在の伊東西小学校で行われた。
川田の、軽快で弾むような明るい歌声が全国に放送され、敗戦による虚脱感に打ち拉がれていた多くの国民の心を癒したのである。

実は、この童謡は、放送日の前日に誕生したというよく知られたエピソードがある。
海沼はNHKから「番組で川田に歌ってもらう、静岡らしい童謡を作ってもらいたい」という依頼がきていた。
しかし海沼は、静岡という詩のモチーフが掴めず困り果てているうちに、とうとう放送前日になってしまった。

たまたまその日、雑誌「ミュージックライフ」の記者であり、「かわいい魚屋さん」でヒット曲を出した作詞家でもある加藤省吾が、人気絶頂だった川田の取材に来ていた。

海沼は、加藤が静岡県富士市出身であることを知っていたので、救いの神とばかり作詞を依頼した。
加藤は短期間では無理と一旦は断ったが、海沼に説得され、故郷静岡の風景を思い浮かべながら、三十分足らずで一気に詞を書き上げた。
この時、詞は一番と二番しかなかったので、海沼は三番を付け加えてくれるよう頼んだ。

一番、二番は静岡の風情であったが、三番は「やさしい母さん思われる」と自分の母への思慕を詠った。

加藤は十一歳のとき父母と離散しているし、母を戦争で亡くしたという境遇にあった海沼は、
出来上がった詞を携え、川田と共に伊東へ向かった。
列車の中で作曲にとりかかり、車窓に海が見えてきた大磯あたりで出来上がった。
伊東の旅館で、川田に口移しで必死に教え、翌日の放送に間に合わせた。

川田の歌は好評を博し、後にレコード化され大ヒットした。

この頃の日本の世相は、町は殺伐とし、人々は食糧難、失業などの生活難にすさんでいた。

だが、GHQの政策もあったせいか、ラジオからは陰うつさを打ち消すかのように、毎日明るい歌が流れていた。

海沼が主宰する「音羽ゆりかご会」の合唱は代表的だった。


余談だが、私は小学校の時に兄に「おまえは音羽ゆりかご会の出身だぞ」と言われ驚いたことを覚えている。
これは兄の勘違いで、私が音羽幼稚園の卒園生だったので、そうだと思っていたらしい。

だが、このことがきっかけで卒園アルバムを見て、海沼が音羽幼稚園の音楽の先生だったことを知った。
くしくも、アルバムに先生と一緒に撮った写真も載っていたので嬉しく思った。
当時のことは何も覚えていないが、教えていただいたことを誇りに思っている。


亀石峠から、伊東側に少し下った海が見える所に歌碑が立っている。


私は伊東に十三年間住んでいたので、ここを通る度に、「みかんの花咲く丘」を口ずさんできた。

ここから見渡す、伊東の青い海は、生涯忘れられない。


http://ameblo.jp/sshbond/entry-11267467373.html

 

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