昨日だったか新聞にあったとても小さな記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140723-00000008-asahi-soci
その記事には小生の好きな歴史上人物の名前があった。
新撰組三番隊組長 斎藤一(1844年-1915年)だ。
小生はこれまで4度会津を旅行し、斎藤一が眠る菩提寺にも参拝した
思い入れのある人物だ。
出身地は江戸とも明石とも言われているが、この他にもいろいろな
点で謎が多い。
このほど、明治初期の警視庁名簿が発見され、
この名簿に「斎藤一」の名前が確認されたといった内容の簡単な
記事だ。
時は幕末の動乱期。京都において「壬生狼」と恐れられた新撰組。
斎藤一は歴史の舞台に登場する。
彼は剣術の猛者が集まる新撰組にあって、沖田総司と並ぶ
剣術使いとして有名だ。
新撰組は、1968年鳥羽伏見で幕府側が敗れると、その後の各地の
転戦においてその体を失っていった。
斎藤一は、京都で世話になった会津藩への義を通し、
土方達と別れ、会津が降伏する最後まで戦った。
戦後、元会津藩士の娘と結婚するが、その時会津の殿様だった
松平容保を上仲人、会津藩家老の佐川官兵衛と山川浩を下仲人に
なってもらっている位、すっかり会津人となっていた。
この時名前を「斎藤一」から「藤田五郎」に改名したという。
賊軍として、過酷の試練を受けた会津関係者。
そんな彼は、会津落城から約6年後(1874年)、警察官として
再び歴史の舞台に戻ってくる。
当時、征韓論で敗れた西郷は、薩摩に下野。
これとともに新政府で要職についていた薩摩出身の官僚や軍人、
警官の多くが西郷を慕って集団辞職し、薩摩に帰った。
これに全国の不平士族も集まり、薩摩はいつ爆発するかわからない
危険な火薬庫だった。
政府の軍人や警官が大量に辞職し、人手不足。そこに薩摩が
暴発しかねない状態。
政府の危機感はピークに達する。
そこで政府は、賊軍だった元会津藩士らに目を向け、人材を募集する。
元会津藩士には、孝明天皇に忠実に仕えたのに、崩御直後一方的に
薩長によって賊軍にされた恨み。そして京都で手を組んでいながら、
裏でこっそり長州と手を組み、会津を裏切った薩摩への恨みがある。
元会津藩士にとって、賊軍の汚名をそそぎ、宿敵薩摩を公然と討てる
絶好のチャンス。
「戊辰の敵討ち」だった。
藤田五郎も警視庁に採用され、西南戦争において武功をたてた。
今回報道された名簿とは、この採用された頃の警視庁初期の
職員名簿といったところだろうか?
記事の内容は実に簡単の為、何ら説明もないが、当時藤田五郎と
改名していたのに、発見された名簿には、新撰組時代の名前である
「斎藤一」と記載してある。
そこに疑問がわく。
当時警視庁には、薩長出身の上司がいっぱいだったはず。
そして「新撰組」を恨み、蔑んでいた上司が多くいたと思われる。
そんな中であえて、昔の名前で名乗るとは、
どんな意図があったのだろうか?
西郷率いる宿敵薩摩との対決を控え、
自分は、そして会津は決して賊軍ではない。よって自分たちを陥れた
薩摩を、堂々と昔の名前で討ちたいという意地のような想いなのか?
それともそんな深い意味はなく、時間がたったのでもはや時効と
いった感じの軽い感じで昔の名前を名乗ったのか?
全く事情は分からない。
だけど斎藤一を好きな歴史ファンは、小さな記事だけど、彼の感情はどうだったのか?
想いを馳せる記事だったと思う。