今回の会津紀行第2弾は、幕末の会津戦争において白虎隊、家老西郷頼母一族21人集団自決と並んで、悲劇の象徴とされている一人の女性に光を当てた。
会津戦争での女傑といえば、昨年放送されて有名になった
山本(新島)八重。
最新スペンサー銃を担いで鶴ヶ城に籠城。
夜襲などのゲリラ戦も展開。
薩摩の大山巌を狙撃したとも言われる凄まじい戦闘スペック。
だが、会津戦争には彼女のほかにも多くの女性が戦闘に参加し,
その中には薙刀の名手として名を馳せたもう一人の女傑がいた。
悲劇のヒロイン 中野竹子だ。
時は1968年 会津。
幕府は崩壊。
薩長を中心とした新政府軍は強引に会津を陥れ、
討伐のため鶴ヶ城に迫っていた。
会津の人々は避難したり、城に入ったりと混乱していた。
中野竹子は、城の照姫(松平容保の義姉)を守るため、母、妹、
女性仲間と城に駆け付けたが、すでに門は閉ざされていた。
そこで照姫は会津坂下方面(会津西部方面)に避難している
との知らせを受け、坂下に急行する。
ところがそれはガセネタと判明。
再び城を目指すが、途中新政府軍の大垣藩兵と遭遇。
おりしもそこには会津藩家老萱野権兵衛が対峙していた。
萱野に合流し、戦闘志願するも、萱野は女性を戦闘員にしてはと渋る。
中野竹子は、それならばこの場にて自害するとさらに迫る。
困り果てた萱野は苦渋の決断で隊に加えた。
新政府軍に薙刀で応戦する中野竹子ら会津の女性たち。
日本合戦史の中でも武装した女性集団の野戦での戦闘は珍しい。
それだけに悲劇の象徴ともいえる。
中野竹子は見事な戦いぶりだったという。
そして悲劇が起きた。
彼女は頭に銃弾受け、戦場に散ったのだ。
22歳。若すぎる死だった。
中野竹子は出陣の際、次の句を薙刀に結びつけて戦ったという。
「武士の猛きこころにくらふれは 数にも入らぬ我が身なからも」
彼女の控え目ながらも、悲壮な覚悟が伝わってくる悲しい辞世の句だ。
そして彼女が散った場所は、涙橋(湯川という川に架かる橋)あたりだったという。
地名からして悲しい場所だ。
「柳橋」ともいうらしいが、今も残る橋だ(もちろん近代的な鉄橋にはなっているが)。
今はとても静かな場所で、激戦が行われた場所とは想像できない。
鶴ヶ城まで2~3kmくらい?離れた場所かな。
照姫が待つ城まで辿りつけず、さぞかし無念だっただろう。
現場から1kmくらい離れた場所に、1体の女性の石像がある。
薙刀を構えた中野竹子の像だ。
(中野竹子像)
近くには昭和13年に建てられた石碑がある。
薙刀はもちろん、美しくもあり、聡明で学問にも通じていたという。
そして石碑には彼女の悲しい辞世の句が刻まれていた。
銃弾に倒れた竹子。
彼女とともに戦っていた母は、介錯をして、
首級は農兵の手により、
会津坂下の法界寺に運ばれ、埋葬されたという。
(※後に母や妹は鶴ヶ城に入城。生き残ることができた)
大河ドラマでその名と悲劇が知れ渡り、多くの方が墓参したようだ。
女性の可能性が開けはじめた夜明けの明治。
これからなのに、無念だっただろうな。
会津戦争で生き残った会津の女性の中には、大山捨松、新島八重、
瓜生岩子など明治の代で活躍した女性も多い。
もし才色兼備の竹子が生き残ったなら、華やかな活躍をしたかもしれない。