黎→雪で黎史くんが不憫な話。長くなったので分割します





密集気味だった診察と書類の山との格闘を終え時計をみると時刻は8時の少し前


遅めの夕飯と最近会えて居なかった想い人への奇襲を兼ねて、黎史は外へでた




デパートで惣菜を買い込み、少量の酒と雪里が好きなケーキを買って歩く


頬を綻ばせながら甘味を頬張る雪里を想い浮かべながら歩き、あとは信号を渡るだけ、というところまで来て車が止まっているのが見えた


古ぼけたビルに似つかわしくない黒塗りのロールスロイス


こんな中小企業や自営業のオフィスが殆どをしめる区画ではめったに見かけない高級車だ


それが何で雪里の家の前に、と訝しく思っているとその中から雪里が出てきた


いつものラフな格好ではなく、シャツとベストを着込んだ姿の雪里は降りた後また車内へ声をかけた


しばらく談笑したあと何かを受け取った様で驚いた様子のあと、照れたような愛らしい笑みを浮かべる


そんな顔、誰にでもみせるものじゃないだろう


黎史は信号が変わっても踏み出すことなんてできずにその様子を見ていた


す、と車の中から手が伸びてくるのがみえる


骨ばってはいるが品のある男性の手


その手は雪里の耳のあたりをなで、そして引き寄せた


雪里も逆らうことなく目を伏せながらかがむ


ここからはハッキリ見えないが間違いなく…


少し間が空いて雪里が顔をあげる。二、三言葉を交わしてからエンジンがふかされた


するりと夜の中に消えていく車をいつまでも見送る雪里の手には最近日本に上陸したと話題のショコラ専門店の紙袋


思わず自分の右手にぶら下がるデパ地下の袋を身体の後ろへ隠した


車が闇へ溶け切ったあともしばらく佇んでから雪里はビルの階段へと向かった


トンっトンっとローファーの音が軽やかに登っていくのが微かに聞こえる



ダメだ


今、たとえ少し時間をおいたとしても、雪里に会うのは無理だ


黎史は苦しげに顔を歪めて踵を返した



さっきみた光景を、雪里の笑顔を振り払うようにずんずんと歩く



潰れそうなほど、心臓が痛かった





黎史の自宅は住宅街の端にある


一階を診療所としており、プライベートルームは二階に設置されていた


洗練された黒いドアを荒っぽく閉じるとそのままずるずると座り込む


普通にあるいて20分ほどの道のりを大股で闊歩してきたせいかどくどくと心臓が波打ち、汗がじわりと滲む




理解していた積もりだった


雪里のそういう一面も含めて、愛したはずだ


それなのに怒りが湧いた


雪里の貞操観念に対するものだろうか。いやこれは、はっきり思いを伝えていないくせにどこかで「雪里は自分から離れていかない」と慢心していた自分への嘲りか


雪里のあの笑みは自分だけのものではなかった


唇も体も、もしかしたら、その心も


別の誰かの物なのだろうか


なぁ、雪里、お前は俺以外の人間の前で


どんな顔で
どんな声で
雰囲気で




ヴーっと上着のポケットにいれていた携帯がうなる


のろのろと引き出すとディスプレイには『冬未雪里』の文字


出たくないと思いながらも雪里からの電話に出ない、という動きは身体にプログラミングされてないようで気付けば通話ボタンを押して耳に端末をあてていた