下半身が麻痺してしまい車椅子生活を余儀なくされて、「死にたい」といっているお母さんのために、福祉とビジネスを学んだら道が拓けるかもしれないと思って、日本に一つしかないという関西学院大学の「人間福祉学部社会企業学科」に入学した岸田さんでしたが、言っていることはわかるのだけど、具体論ではなくて、何をしたらよいかわかりませんでした。

講義でグループ発表をしている真っ最中に「わたしはどうしたらいいのでしょう」と、感極まって、急に泣き出してしまったこともあったそうです。

社会的情緒不安定女とまことしやかにささやかれる中で、彼女は運命的な出会いをします。

たまたま、他大学から講義を受けに来ていた2歳年上の学生、垣内俊哉さんと知り合います。

「僕はぁ生まれつきの病気で、車いすに乗って生活しています。僕の目線の高さは106センチです。この高さだからこそ、見えること、気づけることがあります。だから起業します」

岸田さんはすぐさま垣内さんの元に突進し、母のために何かしたいので、仲間に入れてください」と頼み込みます。

何ができるかと問われると、デザインが出来るとその場限りの出まかせを言い、帰り道に有り金をはたいてデザインの本を買って必死に勉強して、何とか垣内さんの会社「ミライロ」の創業メンバーになります。

 

垣内さんの考えは「障害は取り除くべきものでも、マイナスのものでもなく、歩けないから、見えないから、聞こえないから、気づけることがある。障害は価値に変えられる」

岸田さんは、垣内さんの考えに、頭からつま先までびりびりとしびれたといいます。

障害のある母親と弟と暮らすことで感じていた不安が、この社会に価値をもたらすことなど、考えてもみなかったからです。

 

ミライロがはじめた事業は、どれも障害のある人の目線を活かすもので、新しい建物や改修する建物に足を運んで、バリアフリーの調査や提案をしたそうです。

 

大学にも通い続けながら、営業にも行き、夜は居住を兼ねたオフィスで会議もして、寝る時間も惜しんで過ごしたので、しんどくはあったが、車いすの母親と行ける場所が増えていく、光がさす方に向かって進んでいく実感があったようです。

 

会社の規模も大きくなって、直感力と持ち前の行動力で進んでいった岸田さんは、入社3年目には広報の担当になりました。

ある日「テレビ番組の『ガイアの夜明け』に出演させてもらおう」と思いついたときも、体当たりで、自分が番組の構成作家になったつもりで企画書を完成させ、「ガイアの夜明け」への出演を果たしました。

これが大反響で、たくさんの仕事が会社へ舞い込みましたが、自分が野生児だったから、なりふり構わず突進できたのかもしれない、と書いています。

 

そして、ミライロ設立から3年後、岸田さんの母親も社員になり、障害者の視点で

    発言したり講演をするようになります。

「こんなわたしでもまだ、だれかの役に立った。奈美ちゃん、ほんまにありがとう。わたし生きててよかった」

お母さんから、岸田さんはお礼を言われます。

 

岸田さんは、なんと言っても行動の人です。心で思っていることが、考えていることが、時を経ずして行動に結びつきます。

「行動しなければ、道は拓けない」をまさに実践している人だと思いました。