今回で、子どもや若者が経験した家族のケア・介護を当事者が書いた本「ヤングケアラー わたしの語り」は終わります。

7人がそれぞれ、自分のため、さらには、今、実際にケアをしているヤングケアラーに自分の体験を語ることで、少しでも役に立ちたいという気持ちが伝わってくる内容でした。

 

これまでのヤングケアラーの家族への関わり方、介護を経験して感じたその時々の気持ち、生き方には感銘を受け、もっと多くの方々にヤングケアラーの存在を知ってもらい、ヤングケアラーが社会で孤立せずに、支援を受ける仕組みが整えばいいと心から思いました。

 

これまで紹介した6人も、悩み、傷つきながら懸命に生きてきた方々でしたが、今回7人目の高岡里衣さんには、強く心を惹かれました。

 

高岡さんは、母親が難病を発症してから亡くなるまで24年間、中断することなく介護に携わってきました。

 

彼女が(わたしの語り)を書いたのは、お母さんが亡くなってから1年後だったそうです。私も1年余り前にガンで最愛の息子を亡くし、その間、これまで生きてきた中で最もつらく、苦しい経験をしたと思っていますが、毎日、息子と濃密な時間を共に過ごせたことは、「幸せだった」と実感しているので、彼女の母親を想う気持ちが、私の息子を想う気持ちとだぶって感じられました。

 

高岡さんの母親は、体の不調を訴え続けながら、手先に力が入らなくなり、フライパンすら持てなくなって、大きな病院に行ってはじめて、「多発性筋炎」という指定難病の免疫疾患であることがわかったそうです。

 

小学4年生から、高岡さんは帰宅するやいなや、洗濯物を片付けてから、入退院を繰り返す母親の病院まで行き、そこで食事をとって、それから中学受験のために通っていた塾に行き夜まで勉強して帰宅、というハードな生活を送っていました。

 

中学・高校時代は、母親はやはり入退院を繰り返しながら、ステロイド剤などの強い薬で無理に病を叩いて踏ん張っていてくれたので、学校を休むまでには至らなかったそうです。

けれど、自分の住む家が安寧の場ではないということは、それだけで大きなダメージで、高岡さん自身、吐き気やめまいに悩まされて内科に通ったり、診療内科を受診したこともあったようです。

 

大学時代

母親の容態が急変したのは、彼女が大学に進学してからのことで、長期にわたって服用していた薬の副作用から、「間質性肺炎」になり、慢性呼吸不全になった母親は、酸素ボンベから酸素を吸入しながらの生活を強いられるようになりました。いつ何時も鼻にチューブを入れなければならなくなり、前向きで気丈な母親が「こんな犬みたいに繋がれてまで生きたくない!」と自暴自棄になってチューブを放り投げ、泣いたり怒ったりすることも少なくなかったといいます。

そんな母親の苦しく、つらい状況を目の前で見ていて、精一杯、寄り添いながら、それでも時には腹を立てきついことを言ってしまい、「本当に、母のことを何度傷つけてしまったか分かりません」と、高岡さんは述べています。

 

社会人2年目に、母親も徐々に進行する病と闘いながら、ヘルパーさんの力も借りて何とか生活できていたので、学生時代からずっとやりたかった仕事へのチャレンジを考えていたのですが、希望する企業の最終面談直前のタイミングで、母親の「悪性リンパ腫」が発覚しました。

高岡さんは夢を諦め、母親との残された時間が少ないと思い、在職していた会社もやめて、母親のケアに専念することになりました。

「少しでも元気になってほしい。小さなことで喜んでほしい。24時間、その思いしか頭にありませんでした。棒のように細くなった母親の足を蒸したタオルで拭きながら、かわいそうで、つらくて、隠れて何度も泣いていました」

 

その後、母親は奇跡的に回復し、悪性リンパ腫は寛解したそうです。

「こんな病気に負けてたまるか」と前向きに病気と闘った、母親の強さに心の底から感心した高岡さんは、

『「生きる」という強い心は、とてつもないパワーをもっている。あのときに諦めずにがんばってくれた母には、今でも感謝の気持ちしかありません』と振り返っています。

 

下記も北岡さんの言葉

「終わりのないケアの不安と、それでもいつかは終わってしまうという不安。この生活を抜け出したいけど、その時は自分が最も望まない母の終わりを意味する。それはつらすぎる現実でした。それならいっそ私もその時、一緒に終わりたい。連れっていってほしい。そんなことすら思っていました」

ヤングケアラーに限らず、家族のケアをしているケアラーなら、誰でも一度や二度、心に生まれる感情だと思います。

 

2019年、母親は予断を許さない状況になり、酸素吸入器では追いつかないほど肺の状態は悪化し、ついに帰らぬ人になりました。

 

苦痛と恐怖と懸命に闘いながら、家族が「もういいよ」と思うぐらい母は母の人生を

100%以上の全力で生き抜いてくれました。一緒に生きてくれてありがとう。きっと、こんな幸せな娘はなかなかいないと思います。

 

上記の言葉は高岡さんの言葉ですが、最後は肺血栓になり、家族が傍で見ていてもつらくなるくらいの息子に向かい、死の直前に私が息子に必死の思いで語りかけた言葉でもあります。

 

最後に、高岡さんから、現在、大切な家族の介護やケアで苦しんでいる人へのメッセージがあります。

「どうか自分の身体と心を大切にしてください。真っ暗なトンネルで終わりが見えない、そう思って胸を痛めている方、どうか自分の痛みに気づいて寄り添ってください。自分を責めるのではなく、よくやっていると自分に声をかけてください」