遠藤さんは耳の聞こえない両親のもとで育ちました。

初めて聞く言葉ですが、耳の聞こえない親を持つ聞こえる子どものことを「コーダ」というそうです。

遠藤さんの両親は声帯には異常がなく、学校では手話禁止だったため、声で話す訓練を受けて成長したといいます。声は出すことは出来ても自分の声は聞くことが出来ないので、その声はろう者独特のものだったようです。

 

遠藤さんは、これまでずっと「聞こえない世界」と「聞こえる世界」の両方を意識して生きてきたといいます。

 

それがどういうことか、遠藤さんの文章を読んで少し理解できました。

『聞こえない』両親との生活の中では会話はほとんどなく、彼女は言葉は発することは出来ても、それぞれの言葉のもつ意味までは理解してなかった、と想像来ます。

以下は遠藤さんの文章です。

「ことばのない環境で育った私はことばを獲得できませんでした。子どもはたくさんの言葉をシャワーのように浴び、言葉を発し、受け止めてもらい、ことばを獲得していきます。会話をする経験をたくさん重ねて人は成長していきます。聞こえることで情報はつかめますが、聞こえるだけでは生きられません。

会話の仕方がわからないのです」

 

高校進学のとき、進路について両親に相談すると「分からない」と困った顔で言われたそうです。聞こえない親に育てられた遠藤さんは、世の中にどんな学校や仕事があるかなど知らずに、まわりに聞こえて喋れて頼れる大人は誰もいなかったといいます。

何とか高校には入学したものの、その頃ようやく自分とまわりの子との圧倒的な違いに気がつきました。

「親が色々教えてくれるんだ! 親が口をきいてくれるんだ!親が守ってくれるんだ!私は守ってもらったことなんか一度もない‼」

 

それまで私は、全て自分一人で何もかも決めて生きてきたつもりでした。「聞こえない親に言ってもどうせわからない」と割り切っていたのだと思います。けれど、今考えれば何も分かっていませんでした。ことばが話せているようで、本当の意味では話せていなかったと思います。けれど、耳の聞こえない母は「この子は聞こえるから大丈夫」と信じきっていました。つまり、「聞こえる=何でもできる」と信じて疑わない母でした。

 

母親にそう思われることが遠藤さんにとっては何よりもつらかったといいます。

声で人と喋る経験があまりに少なくて、たまの外食の機会など、自分の声が相手に伝わる感覚が分からずに極度の緊張を強いられたそうです。

 

遠藤さんを、耳代わり、声の代わりにしたお母さんは、遠藤さんが17歳のとき、ガンで亡くなったといいます。それでも母親のことが好きで、「母の言うとおりの子になりたい」と思っていた遠藤さんは生きる意味を失い、絶望しました。

 

25歳は過ぎた頃、ことばや常識など、様々なことを教えてくれる人と出会い、その後、手話も学んで、子どもの頃に経験したことの意味がつながり、お父さんとも手話で話ができるようになったといいます。

 

現在、遠藤さんは手話通訳の仕事しています。

その遠藤さんが切実に願っているのは、聞こえない親は福祉を受けられるけど、「聞こえる」コーダはどこからも支援を受けられず、相談できる場所もありません。ですから、福祉関係の方々、一般の方々に「耳が聞こえない」障害を持った親と生きるコーダのこと、そしてその複雑な気持ちを知ってほしい」そうです。