朝日新聞に連載されている「追い詰められる女性たち」より、専門家の方々の意見が参考になったり、納得したり、共感出来る内容だったり、さらには解決するための課題などを抜粋してみました。

 

6月27日

支援が十分に行き届かない理由について「支援する側が助けたいと考えていることと、支援を受ける側の困りごとがずれている。支援者はその家庭を変化させようと『指導』の立場をとる。変化は苦痛を伴うのに、変化しないとやる気のない家庭と評価する

元ヤングケアラーへの聞き取りでは、学校の先生や保健師、行政の担当者による支援よりも、地域の人が声をかけたことで助けられたケースが多かったという。

 

6月28日

追い詰められる人の多くに、「頼れる身内がいない」「寄る辺がない」という共通点がある。

支援機関の実態に関しても考えさせられることがある。実は、数自体は決して少なくないが、多くは、ただ相談を受けるだけの場になっている。大事なことは直面する困難の解決に向け、伴走してくれる支援が必要だということ。一緒に動いてくれる人や機関があれば、救いとなるだろう。だが、このような相談機関は限られており、しかもパンク状態。

 

6月29日

「勇気を出して頼った先で冷たくあしらわれたり、心ない言葉かけられたり。『もう相談に行けないと思った』とする声は多い」

さらに「窓口ハラスメント」の影響が根強くある。また、もともと窓口に行くことをためらってしまうケースも、ひとり親世帯では多いという。結婚を決めたのも自分、子どもを産んだのも自分、そして離婚を選んだのも自分……。このように考えてしまい、その先にある経済的なj困窮についても、「自己責任」だと追い込まれているケースは少なくない。

 

 

私が一番共感できたのは、「自身はケアを担わなくてもよく、誰かにケアを押しつけておくことができる『特権的な無責任』の地位でいられる者がケア労働を過少評価している。こうした政治のあり方も、ケアの価値がおとしめられている一因だ。

 

介護労働者の報酬が少なく、そのために慢性的な労働力不足になっていることは以前からよく知られていますが、これも政治がケア労働に重きを置いていないからだと思います。

だから、日本の未来を担っていく子どもや若者が身内のケアで、将来に明るい展望を描きにくくなっていても、その支援に積極的に取り組んでいこうとする政治家が現れないから、行政の支援も遅々として進まないのでしょう。

 

ところで、私のこれまでの経験から、どうしていいかわからないケースがあります。

それは支援を受ける側が何を望んでいるのか、わからないという場合です。

単に誰かに困っている状況を聞いてもらいたい、自分でもはきりわからないもやもやした気持ちを話したいということもあるかと思います。

そのことは話していればわかりますが、何とか自分の置かれている状況を改善したい、解決したいという場合、「どうしよう、どうしよう。困った」と思っているだけで、動かなかったり、変化を拒んでいることがよくあります。

そうなると、力になりたいと思っていてもどうすることもできません。

そこにはある種の覚悟や決断が求められますが、その勇気がもてたときに、解決の糸口が見えてくるのではないかと考えています。