粉塵爆発のブログ -14ページ目

粉塵爆発のブログ

とぐろ3.2兄第です。

このブログ一貫性がないビックリマーク

ふと思いました。だったらこのまま一貫性が無いのを貫いていこうと思います。


スーパーキクギのブログ

テーマなんて決めてんじゃねぇ!!!!パンチ!



と自分に言い聞かせました。


ところで明日は選挙ですね、危険な若者にならないよう投票に行きたいと思います。


今日の俺は紳士的だったろグッド!

今日は疲れたーなにやってもうまくいかない。

そんなときは酒ですねー酒酒酒酒酒


スーパーキクギのブログ
この人みたいにかっこよく生きたいですねぇ


結局うまくいかないと思うのも自分の気持ち次第なんですが・・・


ポジティブに物事を考えなきゃね


苛苛というより落ち込み日記やね

そんな気持ちで書いたブログはこんな感じです


スーパーキクギのブログ-THE KIKUGI
麴義wikiより

最初は韓馥の部将だったが、これを裏切って、袁紹に仕えた。麴義の出身地と見られる涼州は、北方民族の侵入などで戦乱が多い地域だった。麴義はそこで羌族の戦法を身につけ、配下の兵卒も勇猛だったという。初平1年(190年)、袁紹に反逆して張楊を誘拐した匈奴単于の於夫羅を、麴義は鄴の南で撃ち破り、その精強ぶりを示した。

初平3年(192年)、強力な騎兵隊を擁する公孫瓚との界橋の戦いでは、麴義は先鋒として、楯を構えた兵士八百人と一千張の強弩隊を率い、公孫瓚が誇る精鋭の騎馬隊を撃破する。麴義はさらに追撃して、公孫瓚配下の厳綱を斬り、公孫瓚の本陣を落とし、騎兵隊に囲まれ窮地に陥った袁紹を救出するという大活躍を演じて、勝利に貢献した。初平4年(193年)に大司馬劉虞が殺されると、その子劉和や劉虞の旧臣鮮于輔と協力して、麴義は公孫瓚への更なる追撃を進めた。興平2年(195年)には、幽州の鮑丘で公孫瓚を破り、その本拠地の易京に追い込む。

しかし、ここから公孫瓚は堅城の易京を楯に長期の籠城戦に持ち込む。1年余りの対峙の末に麴義軍の糧食は尽きてしまい、そこを公孫瓚に逆襲されて大敗した。一方で、界橋の戦い等の功績をいいことに、軍令無視など次第に傲慢な態度が目に付いていたこともあって、遂に麴義は袁紹によって殺害されてしまった。没年は、建安1年(196年)から建安3年(198年)の間ということしか分からない。麴義配下の残軍は、公孫瓚の支援を受けるなどして袁紹に反抗したが、結局はこれらも直ちに殲滅されている。


子竜先生に斬られたのは演技だったのね~


袁紹まじ空気よめねーよって感じですね。



何か今日一日でいろいろありすぎて、ヒーハーって感じですね。


さてさて、キクギといえばなんだろうなぁと思ってしまうので

もうちょっと勉強してきます。


テキトーに画像も貼ろうかなーと

どーもブログ初体験で子竜先生に一瞬で斬られたキクギです。


なんとなく面白かったこと日記に書いて、なんとなく過ごせたらなんて。


とりあえずヨロシク