今年のお盆は、台風6号と7号に挟まれた異例の事態となっている。

迷走の末四国にも大雨をもたらした6号が日本列島に上陸せず朝鮮半島へ去ったあと、今度は7号が本州中央部をうかがっている。帰省客と、コロナ明けのお盆の各種行事の関係者の皆さんにとっては油断ができない状況である。

何事もなければいいのだが・・・。

 

さて、油断のできない状況といえば、昨今の長崎大学の一件である。

思い込みで暴走・迷走する権力者は、マイナンバー保険証に血道を上げて無駄に支持率を下げ続ける岸田首相だけでいい。

今年6月に、ヤフーで長崎大学当局が片淵キャンパスにある経済学部と文教キャンパスの新設の情報データ科学部と多文化社会学部を常盤地区へ移転するというプランを断念したというニュースを見た。

が、そのわずかひと月後に今度は長崎大学当局は唐突に120年以上の歴史のある経済学部のキャンパスを不動産として叩き売り、それで得た資金で18万平米の敷地に7学部といわゆる旧教養課程の低学年の学生がひしめき、すでに過密状態な文教キャンパス内に、新しく多文化社会学部・情報データ学部・経済学部を一体にした建物をつくって移転させるのだという。

朝令暮改というか、なんというか・・・。つまるところ、どうしても文系学部の統合をやりたいということだろう。

ちなみに長崎大学の河野茂学長は昭和25年生まれ。長崎大学医学部生え抜きの御年73歳である。

長崎ならではの複雑な学内事情についても当然精通している。

言い換えれば、長崎大学の中では離れ小島であり、「半独立国」ともいうべき性格の経済学部を、自分の目の黒いうちに「何とかしたい」ということだろう。

 

長崎大学文教キャンパス

 

 

片淵キャンパスは、明治38年の旧制長崎高商創立以降、長崎大学経済学部の単独キャンバスとしてあり続けた。専門課程の学生400名足らずという今の収容人数は旧長崎高商と戦時中の長崎経専時代の学生数360名とほぼ変わらず、5万平米のこじんまりとしたキャンパスは桜並木に国の登録有形文化財である長崎大学瓊林会館(旧長崎高商研究館)や倉庫等、戦前からの赤煉瓦の建物が映える閑静な場所である。

もともと長崎は坂の町であり、今の人口は40万人を割っている。1980年代には同じ市域の人口が50万人いたことを考えれば、人口の減少が著しい。市内中心部に平地が少なくマンション・アパートの適地が少ないことが致命的だ。

おかげて市内の家賃相場は福岡市のそれよりも高く、三大都市圏なみだという。

 

太平洋戦争末期の長崎原爆投下では、浦上にあった旧制官立長崎医科大学は学校も附属病院もその直撃を受けて人的、物的資源に文字通り壊滅的被害をこうむった。医科大学当局はやむなく被害の少なかった片淵町の長崎経専キャンバス内に一時身を寄せることになる。

結局、校舎・病院の再建までの数年間、長崎を離れて大村の旧海軍病院等への移転を余儀なくされたが、片淵キャンパスのほうは山陰に位置していたことが幸いし、爆風による被害こそ受けたものの、建物と資料の被害は限定的で、戦後の新制大学移行につながった。

この当時は、両校は同じ町にある別の官立学校ということでそれなりに助け合っていたようだが、戦後に新制長崎大学となるやその関係は微妙に一変する。

敗戦直後は誰もが自分が生きることに必死だった時代である。

長崎大学は文部省の強いた「一県一大学」の原則に従って、長崎県内にあった官立の専門学校・大学をすべて統合して昭和24年に新制大学として成立した。もともと単科大学であった長崎医科大学や、長崎経済大学として単独での新制大学移行を目指していた長崎経専もともにその希望は容れられず、無理やりひとつの大学を構成する部局になった。

たとえて言えば、「同じ町内に住んでいるから」という理由で、市役所の命令で無理やり生まれも育ちも違う独身男女が結婚させられたに等しい。

このため、各大学とも新制大学スタート後、内部の不協和音が絶えなかった。

一口で言うと、全国の国立大学で敗戦国の文部省からあてがわれる貧弱な予算を、学内の各学部が奪い合う光景が現出した。

もちろん、それまで学部ごとが持っていた財産は、新制大学発足後も再分配はされずレガシーとして後身の学部に継承され、「持てる学部」と「持たざる学部」の状態からの「平等なスタート」が行われた。

その結果、毎年、学生数に応じて予算が「平等に」分配されたとしても、その差は残ったままである。

現在の長崎大学の各キャンパスの状況がそれを雄弁に物語っている。

看板学部である医学部、歯学部付属病院と薬学部の一部(模擬薬局等)の敷地面積が17万8千平米(坂本キャンパス)、経済学部の敷地面積が5万1千平米(片淵キャンパス)、これに対して原爆で壊滅した長崎師範学校の跡地と隣接地に戦後作られた教育学部以下残りの7学部の敷地面積18万7千平米(文教キャンパス)という「資源」の差は、その象徴である。

 

戦後、長崎大学内部において、片淵の経済学部を文教キャンパスに統合する案は何度か浮かんでは消えた。

そもそも長崎大学の医歯薬系を除く学部を文教地区に集約するという案は、昭和39年の工学部新設にからんで湧き起こった。

造船の町長崎に国立工学部を新設するため、敷地として県から文教地区にあった工業高校のキャンパスを譲り受け、その代わりに経済学部の片淵キャンパスを県立高校の敷地として差し出すというものである。大学としては万々歳だが、そこには経済学部の意向は反映されていない。学部に協力をお願いするならば多少の優遇があっても当然だが、むしろ大学当局は、近い将来の移転を前提として経済学部の校舎維持予算を削りにかかった。そのため、戦後10年たっても木造校舎の窓のいくつかは原爆の爆風で歪んで開かない状態で放置されたままだったという。どうせ移転すればいま修繕費をつけても無駄になるからという理系らしい思考法である。いやならば移転に同意せよ、そうしたら文教地区に鉄筋の校舎を新設してやるよという、地上げ屋まがいの恫喝が学内で横行していた。

筆者の蔵書の中に昭和39年刊行の朝日ジャーナル編の「大学の庭」という単行本がある。

朝日ジャーナルという雑誌が連載していた記事を単行本にしたものだが、長崎大学の項は、ずばりこの経済学部の移転問題がテーマとして埋め尽くされている。

 

しかし、従来の合議制による大学のシステムでは当の経済学部自体がそれに反対する以上、それ以上は進められなかった。

せいぜい、予算配分で経済学部に冷や飯を食わす「嫌がらせ」が限界であった。

結局、昭和46年までの戦後25年間以上、経済学部の校舎は長崎原爆の洗礼を受けた古びた木造校舎のままであったし、大学の主だった建物は文教キャンパスに新設された。

 

しかし、小泉内閣以降の国立大学の法人化後はどうだろうか。

国立大学法人化以降は大学の各先生は公務員ではなくなり、一方で学長の権限が大きく拡大された。

今回の長崎大学の方針は、経済学部の片淵キャンパスを、一部分だけを残してあとは不動産として叩き売り、それで文教キャンパス内に新しいビルを作ろうというものである。

長崎大学は岡山大学、千葉大学、新潟大学等と同じく旧制官立医科大学を母体に、県下の官立専門学校をすべて統合してできた新制国立大学である。それぞれの大学とも、地域的に見れば「二番手大学」ではあるが、学部数もそれなりに多く、なかでも医学部は戦前からの講座制の学部であり、ほかの学部は文系を中心に学科目制の学部がほとんどである。

このため、どうしても学内の勢力図式的に歴代学長は医学部から選ばれることが多い。

ご多分に漏れず長崎大学の河野学長も、長大医学部生え抜きの医学部長だった。

これまでの経緯を熟知している学長には、(医学部出身の)歴代学長がなしえなかった60年越しの「偉業」を自分の手で達成したいという強い意志を感じる。

 

 

《参考》

 

 

長崎文化放送

産学官7団体のトップが話し合う26回目の「長崎サミット」が開かれました。長崎大学の河野茂学長は長崎市の片淵キャンパスの売却を検討していることを明らかにしました。 

長崎大学・河野学長:「経済学部を文教キャンパスに動かす方向。経済学部のキャンパスを売却した資金で、文教、キャンパスに多文化社会学部・情報データ学部・経済学部を一体にした建物をつくる」 河野学長は前回2月の長崎サミットで、片淵キャンパスの経済学部と、文教キャンパスの情報データ科学部・多文化社会学部を、長崎市常盤町にある県営常盤駐車場に移転することを検討していると表明しました。しかし、6月、少子化で移転候補の学部の一般選抜の競争率が平均で2倍を下回り、大学の改革や教育環境の整備を急ぐ必要性や財源の確保の見通しがつかないことなどを理由に断念を発表していました。 河野学長:「しっかり大学の機能を移して本学がしっかり生き残れるように」 一方、長崎商工会議所の森拓二郎会頭は次世代のリーダーの育成などを目的とした国際会議の誘致に取り組むことを明らかにしました。 長崎商工会議所・森拓二郎会頭:「世界中から2000名を超える若手リーダーが集まる大規模な国際会議、ワン・ヤング・ワールドの本大会のサテライトプログラムとして『平和』をテーマにしたワン・ヤング・ワールドピースサミットIN長崎。ぜひ産学官オール長崎で誘致に向けて取り組みたい」 「ワン・ヤング・ワールド」はヤング・ダボス会議とも呼ばれ、次世代のリーダーの育成とグローバルな交流などを目的としています。2010年にイギリスの首都ロンドンで第1回が開催されて以来、世界各地で毎年開催されています。会議では環境問題など6つの課題を議論していて、そのうち『平和』をテーマにした分科会を長崎市で毎年開催する計画です。国内外から合わせて300人規模の参加者を想定しています。 鈴木史朗長崎市長:「平和をテーマに若者の祭典が行われる。これを世界に発信する意味は大きい。MICE都市長崎のブランディングという意味でも大きな意味がある」 来年、春ごろの開催を目指していて、実現すれば国内では初めてとなります。

 

NHKより

 

 

長崎大学は情報データ科学部など3つの学部のキャンパスを長崎市中心部に移転させる計画を進めてきましたが、志願者数の低迷が続く中、現在ある資源を活用した大学の改革が急務であるなどとして断念したと発表しました。

長崎大学の発表によりますと、情報・デジタル分野の研究などで地元の企業や自治体との連携を強化しようと、去年8月以降、▽情報データ科学部、▽経済学部、▽多文化社会学部の3つの学部について、長崎市中心部の常磐町にある県有地に移転させる計画で検討を進めてきましたが、このほど断念したということです。

大学は計画を断念した理由として、▽少子化が想定以上のペースで進み、ことしの長崎大学の一般入試の前期の倍率が全体で2倍を切るなど志願者数の低迷が続く中、現在ある資源を活用した大学の改革が急務であることや、▽物価高の影響で建設費が高騰するなど財源確保の見通しが厳しくなったことなどを挙げています。

長崎大学は、今回は移転を断念したものの、各キャンパスの機能の再編や地元企業や自治体との連携強化については、今後、さらに検討を進めていくとしています。

【移転計画の経緯】
長崎大学によりますと、去年8月に開催された産学官7団体のトップが集まる「長崎サミット」で、出席者から産業やまちづくりに若者の発想を取り入れるためには長崎大学を町の中心部に移転させた方がいいなどという意見が出されたのをきっかけに、大学の「まちなか移転」計画が立ち上がります。

ことし2月の「長崎サミット」で、長崎大学は、現在、長崎市の片淵キャンパスにある「経済学部」と文教キャンパスの一部の「情報データ科学部」、それに「多文化社会学部」の3つの学部を移転の対象とすることを明らかにしました。

そのうえで、県や市の協力を受けながら、移転先の候補地として県が所有する長崎市の「常磐駐車場」と「常磐南駐車場」であることを表明していました。

その後、長崎大学は移転先として適切かどうかを検討してきました。

 

 

《参考》

 

昭和40年3月9日の長崎大学学長通達と同年3月22日の経済学部教授会決議に基づく回答

(長崎大学経済学部70年史「暁星淡く瞬きて」より)

 

(通達)

長崎大学施設総合計画

 標記のことに関しては3月13日付け長大経庶第88号をもって回答があったが、本職としては、2月19日の評議会の議決に基づき、貴学部は文教地区へ移転すべきものとし、今後諸施設等の整備に関しては、この基本方針に則り実施することと決定したのでご承知ありたい。

 

(回答)(40年3月22日)

昭和40年3月20日付通達によれば、かかる決定は大学自治の基本を破壊する暴挙であり、経済学部教授会はこれを拒否することに決し、即時その撤回を要求します。

 

  附記

経済学部教授会は、学部の自治を根幹とする大学自治の原理にたって、従来くりかえし学長の非民主的大学行政を批判し、反省を求めてきた。しかるに、学長は、いささかも自己を反省することなく、学部移転を強要してきた。とくに今回の通達は学長自ら大学の自治を破壊する暴挙であって、大学史上かってないこの暴挙を全国の大学人はこぞって非難し、その責任を追及しないではおかないであろう。学長が大学の自治を破壊している点は、次の如くである。

 

(1)学長が議長であったところの2月19日の評議会は投票によらず、また、経済学部関係の評議員の絶対反対にもとづく退場にもかかわらず、経済学部の文教町地区への移転を希望する旨を大学の意思とすると決定した。

1学部のみの教育と研究に直接重大なる影響をもつ学部移転の問題は、すでにくりかえし言明してきた如く、大学自治の原理にもとづき、当該学部の同意をえずしては、決定することができない問題である。

したがって、これに直接関係なき他の学部の意思をもって決定することは、大学自治の破壊である。この決定に参加した他学部評議員の責任はもちろんのことであるが、学長の責任は、強く追求されなければならない。

 

(2)2月19日評議会の決定は「移転希望」にとどめられたものであったが、今回の学長の通達は学長による「移転決定」の通告であって、2月19日評議会の議決から完全に逸脱している。しかるに、学長は、今回の通達においても、前回同様「2月19日の評議会の議決に基づき」と述べている。

これは、議決の内容を完全に歪曲し、責任を評議会に転嫁しようとする欺瞞的行為であって、学長自らかかる行為に出たことの責任は、何ものにもまさって重大であるといわなければならない。

 

(3)学長の移転決定は、当該学部の意思を完全にふみにじって行われたものであって、大学自治の完全なる破壊である。このことに伴って発生するであろうあらゆる事態は、学長に全責任があることを、再び、ここに、明確に宣言する。

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