日曜日のソフトバンクホークスの日本シリーズ優勝にちなんで、前回は福岡ソフトバンクホークス球団社長の笠井和彦氏を取り上げた。

四国は昔から高校野球の盛んな土地。人呼んで「野球王国」。阪神大震災の年に観音寺中央高校が選抜で優勝してから甲子園の全国優勝からは遠ざかっているが、野球好きの多い土地柄である。

国立大学である香川大学は、選手こそ出していないが、香川大学とその前身である旧制高松高商出身のプロ野球球団経営者は笠井氏であわせて3人目である。この機会に先人たちの足跡をたどってみた。


白熱した今年の日本シリーズの一方で、外野席を騒がせたのはプロ野球の名門巨人軍フロントの内紛劇である。

しかし、巨人がストーブリーグで世間の顰蹙を集めたのは今回がはじめてではない。とりわけ、日本中を騒がせたといっても過言ではない「江川問題」。サッカーがまだプロでなかった筆者の世代だと、少年時代に漫画「巨人の星」で巨人ファンになって、「江川問題」で見せた横車で巨人ファンをやめたという人も多かったと聞く。しかし、この渦中にも、野球好きの香川大OBの姿があった。事件当時、阪神タイガース球団社長として辣腕をふるった小津正次郎氏(旧制高松高商卒)である。



>小津正次郎 世間のイメージに隠された 温かい人柄と人間味


阪神タイガース球団発行誌「月刊タイガース」本間勝交遊録より


[20108月号掲載]


香川大学解体新書-江川問題
小林投手入団記者会見の小津社長


今ある私の恩人の一人。タイガース復帰へ手を差し延べてくれた人。

小津正次郎元社長(故人)。

お蔭様で、大好きな野球に携わったまま、定年退職を迎えることができた。本当に幸せ者だと思うし、大いに感謝している。当時の同社長を思い浮かべてみる。実に情の深い、人間味のある人だった。面倒見も良かった。ファンを非常に大事にする人でもあった。マスコミ報道などで、世に知られる『オズの魔法使い』とか『ブルドーザー社長』という、ダーティーなイメージとは、かなりの隔たりがあった。そして、器のデッカイ、頭の切れる人でもあった。

確かに大胆だった。チーム作り。社長に就任するや、いきなり手掛けたのが外国人監督(ブレイザー)の招へいだった。外国人は義理とか人情には無関心。何事においてもビジネスライク。チームを大きく変えるためにはもってこい。ブレイザー監督のシビアなチーム作りには、ダーティーな一面を大いに発揮した。主力選手の田淵、古沢を放出して、ライオンズから竹之内、若菜、真弓等を獲得した。四番バッターの放出。かなり勇気のいる決断だったと思う。プロ野球界のトレード。ルール違反でもなんでもない。ごく当たり前のことだが、それでも日本の場合、割り切れない感情が沸き、非情に思える問題に発展する。いろいろ物議をかもしだした人だったが、その後の行動が小津さんならではの、小津さんらしいところ。場合によっては、イメージを損なったまま、あたかも悪人であるかのように振舞い続けてしまうから並みの人ではない。世の中、大きな声の持ち主に悪人はいないという。声は実にデッカイ。笑い声も豪快だった。

野球の好きな人でもあった。だから、タイガースが可愛くてしかたがない。気になる。家にじっとしておれない。自然に甲子園球場へ足が向く。徒歩で通える距離。立地条件は申し分ない。あのよく通る大きな声。特長のある豪快な笑い声。同氏が来場されたときは、少々遠くにいてもすぐわかる。挨拶すると『オウ!元気かあ。君らが頑張らないとなあ』といつもハッパをかけられた。元気な姿を見て我々は安心していたが、甲子園でゲームのある日は必ずネット裏から熱い視線をおくっていた。この行動も、性格からくる温情のあらわれだろう。

小津さんの温情と面倒見のいいところに直接触れたことがある。ある年かのキャンプ中の出来事。某スポーツ紙に、当時のコーチが主力選手を批判するコメントが載った。会社から電話がかかってきた。係の者から『小津社長です』と受話器を渡された。おおよその見当はついていたが『ハイ、本間です』と名乗ると『今日のスポーツ紙見たかあ。あの某コーチの談話だけど、本当に発言したのかどうか調べてくれ!』のお達しだった。こういう問題、一番厄介な調査である。『言った』『言わない』どこまで行っても収拾がつかないことが多い。決着させようと思ったら至難のワザ。いろんな角度から調査してみたが、案の定、やはり結論は出せなかった。

『どこまで行っても平行線をたどっています』調査の経緯を説明したあと、こう報告をすると、同社長『そうかあ。やっぱりなあ。まあ、それやったら仕方ないが、君はどう思う』私に問いかけてきた。予期せぬ事態になって、大いにあわてた。『僕ですか……。結論とはいきませんが、新聞記者の経験から推測しますと、コーチが喋っていると思います。取材されたコーチも必ず目を通す記事に、談話の捏造はないと思います。こういう人は必ず同じことを繰り返します』それでも、忌憚のない意見を述べさせていただくと――。

『そうかあ……。ようわかった。だけどなあ、整理するのは簡単だけど、このコーチの今後の面倒は誰が見るんや。簡単にはいかんもんなんや』小津さんの発言だ。聞いていてハッと我にかえった。さすが、トップに立つ人。そこまで考えているとは思わなかった。頭が下がった。寛大な人だ。部下を大きな懐で包み込んでくれる人である。温情と恩情の両方を持ち合わせた人。オズの魔法使い、ブルドーザー社長は仕事上の顔。確かに私も新聞記者当時は、ニックネームそのままの人かと思っていたが、温かい人柄に直に接して見直した。

面倒見がいいといえば、こんなことも――。東京から毎年のように、高知の安芸キャンプにきていた女性ファンがいた。柴山則子さん『これから用事があったら、この人を訪ねていきなさい』キャンプ中だった。その女性と一緒にきて、私の前でこう告げていったのは小津社長。少々びっくりさせられたが、さすがファンを大事にする同社長だ。彼女、本物の虎ファンだった。当時の安藤監督が甘党であることをよく知っていて、チームが東京へ行くと行列のできる店で、何時間も並んで大福を購入。わざわざ宿舎まで差し入れに来てくれた。『大福のお姉さん』命名は同監督だったが、大福の差し入れはいまだに続いているという。そして、私の誕生日にもいまだにお花を贈ってくれる義理堅い人。ファンを大切にする小津さんの遺産だろうし、柴山さんも、面倒見のいい社長への感謝があっての行為だろう。

チーム作りに力を注いだ人。優勝体験をしてほしかった。退いた年の日本一は複雑な心境だったに違いない。その優勝で、小津社長に代わって思い切った振る舞いをしてくれたのが、岡崎義人(故人)社長だった。



本間勝;1939年5月1日生まれ。愛知県出身。中京商(現中京大中京高)から1958年に阪神タイガースに入団。背番号14。投手として活躍し1960年には13勝を挙げる。1966年、西鉄ライオンズに移籍。翌年に引退。引退後は14年間の新聞記者生活を経て、阪神タイガース球団の営業、広報担当を歴任。2002年に広報部長を退任。



【筆者注】

小津正次郎;1915年1月29日生まれ。三重県出身。旧制高松高商(現・香川大学経済学部)時代は野球部に所属。その後輩には日本ハムファイターズ初代オーナーの大社義規氏がいる。

1936年に阪神電鉄に入社。専務取締役を兼務したまま1978年オフ、球団創立以来初の最下位に終わったチームの建て直しを期待されて阪神球団社長に就任。球団初の外国人監督であるブレイザー氏の招へいをはじめ、長年主力として活躍した田淵・古沢を、真弓・若菜・竹之内・竹田(西武ライオンズ)とのトレードで放出するなど、球団改革を積極的に進めた。
また、この年起こった「江川事件」においても、硬軟織り交ぜた交渉術で巨人のエース・小林繁を獲得。その辣腕ぶりから、「オズの魔法使い」「ブルドーザー社長」の異名をとった。




(参考; 昭和毎日:毎日jpより

>阪神と契約の江川、8時間後に巨人・小林とトレード 




香川大学解体新書-小津
江川と契約後、記者会見する小津阪神球団社長



今やスポーツキャスターやワイン通として幅広く活躍する元プロ野球選手の江川卓さん(52)。現役時代は巨人のエースとして入団3年目に20勝するなどプロ通算9年で135勝し、球界を代表する投手として活躍していた。しかし巨人入団時に起こした大騒動は、今も多くの人の記憶に残っているに違いない。 

江川さんは作新学院から法大を経て一浪後の1978年(昭和53年)11月21日、野球協約上の“空白の一日”を突いて巨人と電撃契約。いったんはこの契約が無効とされたものの、その後のドラフト阪神に1位指名されると、当時の金子鋭コミッショナー(故人)の「強い要望」で巨人・小林繁投手とトレードされることになった。今から29年前の1979年1月31日午後3時すぎ、いったん阪神と契約し、約8時間後の2月1日午前0時すぎに小林投手との交換を成立させるという電撃トレードだった(その後このトレードは白紙に戻され、江川さんは開幕の4月7日に正式に巨人入りした)。一連の騒動は“ルール破り”と世論の強い非難を浴び「エガワル」の流行語も生まれることになった。

【乗峯滋人】(2008131日掲載)