天武天皇と天智天皇の謎 | パーシヴァルと賢者の石

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最近、このブログではないところで歴史(おもに日本のまつろわぬ民について、など)に関する調査をまとめ始めているので、あまりこのブログを更新する余裕がなくなっています。

しかし調査の過程で気になったことを時々書いてみるかもしれません。

 

最近いろいろなところで天武天皇と天智天皇が兄弟ではなかったのではないか?という指摘を目にしていたので、先日「ある筋」にその件について尋ねてみました。

回答は「日本書記の天武天皇と天智天皇についての記述は、朝鮮での出来事をベースに書かれている」というものでした。その時は時間もあまりなく、詳しく聞くことができませんでした。

 

しかし、その後たまたま手にしたこちらの本で取り上げられていた鹿島曻氏の説が、まさしくそのような内容だったのです。

 

 

 

以下引用

 

白村江以前、いくつかの小国家が九州と南朝鮮の両方に領土を持っていた。したがって、その頃の、朝鮮半島南部の歴史と九州の歴史とは不可分のものであった。中国史は、それらの国々を弁辰諸国と書いたり、倭国と書いたりしていたのだ。

 

引用はこの程度にしておきますが、もっと詳しく書かれています。

 

こちらにも関連した興味深い話がありました。

日本の百済史は百済史の日本史

山科誠氏の本はいずれ読まなければいけないなと思いました。

 

また、よく興味深い話が載っていて読ませていただいている「煩悩くん フルスロットル」にも前回も取り上げた藤原氏関連の話題がありました。

藤原氏の正体と野望

 

藤原氏の分析を一部引用させていただきます。

 

1)天神系・天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする中臣氏末裔 【一般解】
2)藤原鎌足は進駐してきた唐軍将軍・郭務悰 【八切史観】
3)鎌足=百済王子・豊璋 【関裕二説】
4)鎌足=豊璋で、天智天皇の子を孕んだ妃(実母・皇極天皇)を賜り不比等が誕生 【語り部説】

1)は出雲社家の千家からコヤネからの40代分の系図を買って接続したに過ぎず、真っ赤な嘘である。それは神官一族である筈の藤原氏が春日大社と興福寺の2つを持っていることから伺い知れる。っていうか、両建ての観点からは2つ持たないと気が済まないのでしょう。

2)は白村江敗戦(663年)から幾分経った669年に「大唐が郭務悰ら2000余人を遣わしてきた」、671年11月にも「唐国の使人郭務悰等600人、送使沙宅孫登等1400人、総計2000人が船47隻に乗り比知島に停泊」と記されていて、郭務悰が日本に来たことは確かだが、藤原鎌足が沙門智祥を遣わして品物を郭務悰に贈ると対応しているので、鎌足と郭務悰は別人物だと思う。

3)は最も正しいと考えていた説ですが、百済系で中大兄皇子と懇意だった藤原氏が天武朝には冷遇されていたようだが、、何故、中央から排除されなかったのかが疑問。しかも、最近は名無し先生言説に感化されており、藤原氏=李氏という風に見ているので、百済系では辻褄が合わなくなってきている。

4)が一番エキサイティングな内容ですが、同母妹(間人皇女)との不倫関係にあった天智天皇なので、実にアリエール話だと思っています。
※当時は異母ならば結婚はOKでした。

このような状況下で出てきたのが、藤原鎌足=武士カクという本物黒酢氏の説。当然、武士カクは白村江敗戦で進駐してきた唐の流れになりますね。そうなると、天智天皇との談山神社での密談は嘘っぱちとなるわけだが、、、、

そして、この鎌足の娘が唐の後宮で側室となり皇后になった則天武后(武則天・武昭儀)なのだという。これが本当ならば、その後、唐の玄宗皇帝から寵愛を受けた楊貴妃が阿倍仲麻呂と共に安史の乱を逃れて日本に亡命してきたという伝説は本当にあったのかもしれない(滝汗)。

 

ちなみに「ある筋」はこの武士カク説は否定していました。

 

大化の改心前後について、決定的な情報を探しています。引き続き調査を進めます。