今月の課題図書の1冊、『不完全な司書』(青木海青子 著/晶文社/2023)を読了しました。
青木海青子(みあこ)さんの豊かな言葉が紡ぎだす文章が、海青子さんの声そのもののように感じられるのは、前作の『本が語ること、語らせること』(夕書房/2022)を拝読したときにも感じていましたが、今作は、海青子さんの豊かな言葉の源と感情のひだが、より一層美しいハーモニーを奏でているように感じます。
このハーモニー、言葉の豊かさに流されるでもなく、感情にゆだねるでもない、海青子さんの体感や実感に
できうる限り沿った言葉と感情を、自分で自分の手綱をしっかり握り、冷静に選択して書かれていることが、海青子さんの内面的な豊かさとなって、読者に伝わってくるのです。
そんな豊かさに触れて、読書感想を書こうとは、なかなか正気の沙汰ではないのは百も承知。
海青子さんの豊かさは、他を圧倒するのではなく、その豊かさのうちに、読者の内面を連れ込んでしまうのです。
そして、そのうちに、こうして読者自身の内面の豊かさの源を立ち上がらせてしまう。
わたしがこうして書いてしまうのは、その証拠です。
「書くことのケア性について」という今作のエッセイの一編は、わたし自身、つらつらと自分のペースでこのブログを書いていることを、言葉にして下さっているように感じています。
ここでは、認知行動療法的なアプローチのグループワークの一コマを、海青子さんがご自身の体験から記憶を思い起こして、文章を書いていることが綴られています。
「メンバーの誰かの日常の困りごとに対して、その人の心が楽になるお守りのような言葉をみんなで提案する、というものです。いくつかの候補が出た中から、当人が一つ選んで何度も声に出し定着させていく、というところまでがセットです。(中略)今、文章を書いていると、頭の中であの会議室でのワークを1人で行っている気分になります。「このモヤモヤに対して、自分が楽になる言葉は何だろう?」と何人かの自分が言葉を提案して、ホワイトボードが埋まってくる。(中略)グループワークを終了した時、講師の方から「生きている限りまたしんどくなるから、このワークはずっと続けて、自分をケアしていった方が良い」と言ってもらいました。そして文章を書くことがわたしが参加したグループワークの、自分なりの続け方なのです。」
(『不完全な司書』p181-182)
モヤモヤがたとえスッキリに成らなくても、“このモヤモヤはこういう感じで、こうしたら楽かも”くらいの目処が立つだけでも、「モヤモヤ」に輪郭が与えられて、捉えどころがあるように感じ、結構楽になることがわたし自身ありました。
また、実際に体験したグループワークを、複数の自分でグループワークを疑似的に行うことは、「それぞれ異なった表情や気質の自分」が内在していることを実感することも含まれていて、「いろんな自分の存在」を自分の内に認めることも、ケア性のひとつのように感じます。
海青子さんが小説を書かれるときには、もう一つ別の方法で書き進められたとのこと。
「小説を書く時は、脳内グループワークとは違った手法を使いました。これも心理療法の話の中で学んだのですが、認知の歪みの根源となってしまったようなエピソードを思い返し、そこに「こんなふうに守ってくれる人がいたら良かった」というヒーローのような人を登場させるのだそうです。そうすることでエピソードを再体験し、歪みが変化していくのだと聞きました。私はこの手法を小説で使ってみました。周りに上手く合わせられないかつての私のような子どもを主人公にして、心を通わせてくれる大人を登場させるのです。」
(同書 p183)
過去の記憶や、モヤモヤ、そして「自分の中の自分」に触れていくには、言葉にして、書いてみて、自分の目に示すこと。
それが「ケア性」であり、本書で繰り返し使われている「心丈夫」ということにつながり、このプロセスをこつこつ続けることで、本質的な生命力を育まれる。
静かに、着実に、自分の本来の生命力を育んで養う手立てを、この本が教えてくださっているように感じます。