ゆるゆる My dictionaryをつくろ♪

ゆるゆる My dictionaryをつくろ♪

学びの者です。
☟の学びや、読んだ本などの記録と、そこからのインスパイアを書き残しています。
・ゆるゆるブログ育成塾
・ワークライフスタイリスト®養成講座
・Self-Branding Lesson ...etc.

昨年の10月から受講していた「ワークライフスタイリスト®養成講座」。
半年間の受講期間を修めて、ディプロマ授与式を迎えました。

この日は、各期の講師と受講生の面々、そして、養成講座を創設された宮本佳実さんが、会場にいらっしゃいました。

この半年間、「自分の人生に責任を持つ」、宮本佳実さんのお言葉を拝借するなら、「自分の人生に本気出す♡」ことを、日々の小さなことから実践していった日々でした。
誰かに振り回されていると感じていても、実際に振り回そうとする人が目の前に現れたとしても、「自分の人生に責任を持つ」という視点で考えた場合、「振り回されていることさえも、自分の責任の下に選択している」ということになります。
そしてそれは、「ここから自分が選び直せる」ということと背中合わせなのです。

今、ここ、この瞬間から、自分で選ぶことができる。
そう腑に落ちたときに、自分の内側から湧いてくるエネルギーを、いつも感じています。

ほんとうに、どんな些細なことも、そう、頭の中の考えことさえも、「自分が選べる」。

また、いまここから、自分で選んで、選び直して…を繰り返していこうと思います。
そうして先々の景色も感情も、存分に味わって、豊かな人生を送る、成熟した女性になっていきたいと思います。

今回111期クラスでお世話になった、講師の新井りえさん、水嶋あさ美さん、そして「ワークライフスタイリスト®」という資格をこの世に生み出し、人間らしく生きることにカタチを与えてくださった宮本佳実さんに、心から感謝を申し上げます。
 

 

ワークライフスタイリスト®養成講座の受講レポは、

こちらにまとめています☟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

魔女セラピスト®養成講座第2講は、「見えない世界やエネルギーについて」。

周波数や次元、エネルギーといった「目に見えない(けど存在している)もの」についての用語の解説と、それらの仕組みの基本を学ぶ内容でした。

 

目に見えないものって、存在しないんじゃないんですよね、存在してるんですよね(急にこんなことを書くと、ちょっと変に思われるかもしれませんが。()

 


このあいだ、合気道のお稽古の時に、指導者の方から、「今から3つの例えをいうから、そのイメージをしてみてください」と言われました。


これは、一人の人が、肩の高さで「腕を伸ばした状態」の「3つの例え」をそれぞれイメージして、もう一人の人がその腕に目いっぱい力をこめて肩の高さから下へ下へと押さえつけようとするもの。

 

「3つの例え」とは、「鉄のような腕」「絶対折れない太い木の幹のような腕」「氣がスーッと流れている腕」の3つ。

「鉄のような腕」と聞くと、ずっしり重くて、ぜーったいに曲げられないような力強さをイメージしますし、「折れない太い木の幹」も同様に腕に相当な力を込めますし、相手は相当な力をこちらにかけてきます。腕を伸ばしている側は、何とか持ちこたえて、腕を押さえつけられないように踏ん張るわけです。

そして3つ目の「氣がスーッと流れている腕」というのは、前の2つと違って、「ぜったいに曲げられないぞ」といった力みは皆無で、でも腕は緩んでいない、絶妙な塩梅で腕がまっすぐ、そして気持ちよく伸びます。

そこに、先の2つの時と同じように相手は力を込めてくるのですが、こちら(腕を伸ばしている側)は、全然力を入れなくても、相手の押さえつけようとする力をもろともせず、腕を肩の高さでまっすぐに伸ばした体勢を保てるのです。

 


ここでいう「氣」というのは、「エネルギー」のこと。

このお稽古をして、「エネルギーの存在」のみならず、「エネルギーの強さ」も体感しました。

 


私の日常の一コマである「合気道のお稽古」を切り出して、ここに書いておりますが、合気道や様々な武道のお稽古をされていない方、武道が身近ではない方も、ごくごく日常的な何気ないときに、「エネルギー」って感じられるように思います。

 

誰かを見送るときに「気を付けていってらっしゃい」という声かけや、食事を作るときに「おいしくなーれ」と心の中で唱えることも、目には見えないエネルギーのなせる業。

 


今回の講義では、ネガティブなエネルギーをポイっと断捨離するワークも実際に行いました。

これも、目には見えないけれど、自分にとっての不要なものへ「さようなら」を告げることで、意識的に「手離す」ことが叶う、というわけですね。

 


目に見えるものの力も借りながら、目に見えないものの力も借りながら、自分にとっての幸せな人生を楽しむことが、生きるってことなんだなぁ、と第2講のアーカイブ動画を繰り返し視聴しながら、感じています。

 

次回以降も楽しみです。





















「理想」という言葉を耳目したとき、わたしは「とある点」のようなイメージを持っていたことに、昨日気づかされました。
「目標」とか「到達点」とか、そういうような「点」のように、「理想」のことを自分の中で意味づけていたな、と。

いま手元にある本には、「理想」について、こんなことが書かれています。


「『理想』というものは(中略)『継続せる組織のある連想』。これをやさしく嚙み砕いて言うと、ある組み立てのある考え方がそのまま継続している状態を『理想』と言う。」
(引用元:『ほんとうの心の力』(中村天風/PHP研究所/2006年))

 

 



「ある組み立てのある考え方がそのまま継続している状態」を「理想」と言う、ということは、「理想」は「継続している状態」すなわち「活動している状態」ということ。
先に書いたような、固定的な「点」や「場所」ではなくて
「ある組み立てのある考え方がそのまま継続している状態」、つまり「ある思考の構造を継続している状態」が「理想」というわけです。

「ある思考の構造」を「個々人の“心地よい”と感じる考え方・ものの捉え方」と仮定した場合、「ある思考の構造」というのは、決して頭でっかちな状態ではなくて、「感じること」「ひとり一人の感覚」が軸になっていることになります。

思考が感情を生む点から考えても、「個々人の“心地よい”と感じる考え方」が継続されれば、「理想」の状態にある、というわけですね。
あ、いえ、継続「されれば」ではなく、継続「していけば」ですね。
自らが継続していくことですからね、「されれば」という受け身的なことではなく、「していけば」という主体的な言葉のほうが、適切ですね。

 

個人的なことを言えば、「わたしの理想って何だろう?」と考えるとき、「〇〇ほしいな、〇〇いいな」と思う一方で、「でもそれなくても、なんか大丈夫だな~」という感覚も同時にあって、「はて?なんで?」と思っていたところ、先に書いた本で「そっか、そういうことか!」と気が付いたわけです。

 

「自分にとっての心地よい思考構造」を継続している状態での「理想」が実感されると、こういう状態になるのか、と思った出来事でした。

 

 

また、「理想はコレっ!」と明確な「点」がある方の場合は、その「点」にいるご自身の「状態」をイメージしてみるのも、よきですよね。

何を考えて、どんなことを感じて、毎日過ごしているのか…「理想」を描くプロセスで、これらのことがよく語られる理由が、さらに腑に落ちたように感じます。



「理想」という言葉の意味が、わたしの中で書き換わった記録として、My dictionaryのカテゴリーに登録しておきます(ひさびさだなぁ、My Dictionary。(笑))。

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現実化の一歩目は、「言葉にして書くこと」ではないか、と最近特に思います。
これは、現実化したいことの的をきっちり漏れや外れなくつくる、ということではなくて、「自分の想いや考えに形を与えていく」という意味で、「言葉にして書くこと」。

この半年間、ワークライフスタイリスト®養成講座や、衣笠環さんのセルフブランディングレッスンを通して、「言葉にして書く」機会がたくさんあったから、そう思うのかもしれません。

言葉にして書くことで、まずは自分の目の前に、想いや考えの形を現していく。
ぼんやりとでも、全然かまわないんです。

想いに形を与えていく。
考えに輪郭を与えていく。
自分の想いや考えに、正直にそれができるのは、自分自身しかいないから。

形を与えてみた思いや、輪郭を与えてみた考えが、いきなり「ドンピシャ」じゃなくて全然いい。
むしろ、「んー…ちょっとちがう。もっとこういう感じかな…」と、手探りのヒントにしていくように。

「これ、なんかちょっとちがう」「もっとこういう感じ」という感触は、自分の感覚から生まれてくるもの。
だから、自分が自分に正直にいることが、大事。

言葉にするときには、だれかの言葉を借りてみたらいいと、わたし自身は思います。
もともと、言葉はすべて誰にとっても借りものですし、「うまく表現しているな」「そうそう、こういう感じ」という言葉を見つけたら、そっと拝借してみるのです。

「自分の想いや夢、理想を現実化する」というのは、旗を立てたゴールにたどり着く、というその1点だけではない気がして、つらつらと書いてみました。


立てた旗だけが「現実化の証」であったら、それはわたしにはなかなか酷な話だな、と個人的には思っています。
旗にたどり着くまでは、どんな道であってもいいかと問われれば、そうではないし、「想いが形になっている」からこそ、旗までの道も形作られると思うからです。
そう、こうしてわたしがここに書いていることも、「現実化」のひとつ。

誰かに言う前に、誰かに言おうとする前に、まずは自分に正直に、自分の想いや考えを言葉にしてみること。
自分の想いをまず「言葉」にして、まず自分の目の前に「現実」を作っていってみること。
言葉にすることは、自分の目の前に「現実」を示す手立てとして、一番手軽で柔軟。

春へと季節は移ろい、「はじまり」を感じさせる時期に、改めてそういうことをしていくのも、いいかもしれませんね。

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