昨日は日雇い労働者の街であるドヤ街通称「山谷」に僕と友人のアレックス(from ウクライナ)と共に現状リサーチに行ってきた。

そこでは現在62歳のKさんにインタビューをすることができた。
では、目の前で起きている現実をKさんとの会話形式で、ここに掲載したいと思う。

■Kさん
年齢:62歳、性別:男性、出身:鹿児島県、最終学歴:高卒、現在の居住地:東京都台東区(山谷)、現在の職業:日雇労働者(無職)、年収:約24万(生活保護の受給経験あり)

1月10日、場所はJR南千住から徒歩数分の所に位置している日本最大の日雇い労働者街である通称山谷地区へと向かう。強い寒風が吹く中、南千住の駅から車道を歩いていると時折裏路地が視界に入ってくる。
なんとくなく寂しい風景を感じ、二人で入っていく。

裏路地に入ってまもなく、そこは山谷地区の中心地であることを確信する。なぜなら、上記の動画でもあったように、労働者と思われる人たちが路上にたむろしている姿を多数見かけることになったからである。

ぐるぐる回っていると、うろうろ歩いている人がいるので、話しかけてみる。
その方はKさん。
Kさんに日雇い労働の現実を聞くことにした。


■Kさんからみた山谷の歴史


【70年代】
・人々がとても溢れていた
・仕事が沢山あり、その日暮らしでも困らなかった

【80年代】
・若い人が来なくなった(3Kが嫌だから)
・労働センターによる紹介で、仕事を貰うことができた(1日で2~3万の収入だった)

【90年代】
・5000人!?が生活保護を申請し始める
・バブル崩壊に伴い仕事がなくなる

【2000~現在】
・若い人がほとんどいなくなり、高齢労働者が殆どとなる
・治安がよくなる(高齢化に伴って!?)
・仕事がない(労働センターに寄せられるのは、2~3件/1日)
・現在の日給は6000円程


■なぜ山谷に出てきたか?


Kさんは昭和23年生まれの現在62歳。見た目はやせ細り、見るからにホームレスの住人という印象だ。
「なぜこちらに出てきたのですか?」
僕がそう尋ねると、Kさんは「弱かったんだよね、自分自身が・・・」と答えた。

少し間をおいてから、
「おれは高校卒業後、鹿児島から上京してきた。一番最初は化学品メーカの営業だったんだ。だけど、人間関係がうまくいかなかったのと、営業の仕事は好きじゃなかった。高卒だし、仕方なかったんだけどな。」

Kさんは最初に就職した化学メーカを辞め、行くあてもなかったため、栄えていた70年代の山谷へとたどり着く。

「山谷ではどのようなお仕事をされていたのですか?」と質問をした。
すると、「最初も何も建設現場の仕事が多かったよ。ドカタの仕事だな。コンクリ運んだり、か片づけたりとか。」

「現在はどんな仕事をされているのですか?」
「いまは仕事がほとんどないんだよ。だからほぼ無職だ。昔(70年代)はたくさんあったけど、90年代後半からは、仕事は一日2~3件(山谷には労働センターという福祉財団法人があり、労働者に仕事の斡旋、センター地下にある娯楽施設の提供、無料での医療、食事を提供し、労働者を支援している。) しかないんだ。だからその2~3件をココ(山谷)の労働者みんなで取り合いになるわけ。当然、いざこざもあるよ。金としては一日6000円くらいだ。最近は、都が60人くらいに仕事をくれるんだ。15時までの仕事で主に公園や道路の清掃で9000円もらえる。」

話をしていると感じるのだが、Kさんは実に話やすい人だ。
きっと真面目な人なのだろう。続けて、収入について質問をする。

「現在の月収はどのくらいですか?」
「大体2万だな。」
「すると、年収は24万くらいですか?」
「まぁ、そんなとこだよ。」
「生活できるのですか?」
「メシは1日1食しか食わない。だからなんとか生活はできる。あと、炊き出しが毎日あったり、週に3回、パン(8枚)と牛乳が労働センターより支給されるんだ。だから、あまり困ってないんだよ。」

1日1食である。どうりで痩せているわけだ。見るからに健康状態も良くなさそうである。

「困ることはないのですか?」
「そうだなぁ。寝るとこに一番困っているよね。お金がないから路上で寝ることになるんだけど、冬はとても寒いよ。昨日も寒かったしね。ただ、労働センターから月に6回宿泊施設の使用を許されているんだ。それがありがたい。
今年はまだいないけど、毎年この時期は凍死者が出るよ。」
Kさんは、時折、咳こむ。インタビュー前日はとても寒かったので、カゼをこじらせているようだった。

路上でインタビューをしていたのだが、周囲には労働者がうろうろ歩いており、
時折、僕たちに絡み始める労働者も現れた。どうやら、この周辺のリーダ格のようだ。

「お前ら、何しにきたんだ?ここは見世物じゃねえぞ」と言わんばかりの口調であったが、事情を説明し、我々は調査しているという事を告げると、彼(絡んできた労働者)は、「お前らに勉強になるものを見せてやる」といって、アレックスを連れて行った。

僕はKさんのインタビューを続行する。

「現在の景気について、悪いという実感はありますか?」
「あるね。以前よりも。建設系ってのもあるんだと思うよ。」
「なぜそのような実感を持ちましたか?」
「去年の12月28日までは働いていたんだよ、おれは。でもクビになったんだ。
それまでは、その会社の寮に住んでいたんだが、クビになったらさ、住めないじゃない。
だから、ココに戻ってくるしかなかったんだ。」

「その時は、どのような生活を?」
「月に15日働くんだが、日給で9000円。だけど、寮費や光熱費とかいろいろ引かれるから、手元には1日6000円しか残らない。それが生活費に回るわけだけど、月9万しかないんだ。だから手元には一銭も残らないよ。」

本で読んでいた現実を実感していると、Kさんはつづけた。

「でもな、すごいことがあったんだよ。去年の競馬当てたんだ。」
なんでも所持金1万5千円を賭けたら、大あたりで40万になった。そしてさらに賭けたら当たって、12月28日までに140万が手元にあったらしい。
「でもな、今は所持金が8000円しかない。なんでだと思う?」
なんだか試されているようだったが、
「他のギャンブルや他人におごったからですかね?」
「そのとおり。140万のあと年明けに大井競馬で負けて50万に減ってしまった。さらにココでおごったり大盤振る舞いしていたら、約2週間であっという間になくなってしまったよ。
酒が大好きで、こういう性格なんだオレは。だからダメなんだよ。」
どうやらKさんは、少しお金が入ってしまうと、気分に任せてお金を過剰消費してしまう人のようだ。


■後悔や不安について

時間も1時間を大幅に超え、約2時間が経とうとしていた。またアレックスが無事に戻ってきた。最後に、Kさんの想うことについて率直な質問を試みることにした。

「Kさんの家族との関係は?」
「家族とは10年前に絶縁した。鹿児島の種子島に戻ったんだけでど、酒を飲みすぎて暴れてしまったんだ。そうしたら両親に精神病院に入れられたんだ。田舎だから、一度そういうとこに行ってしまうと帰るところはないんだよ。んで、東京に戻ったが、事故を起こしてしまい・・・以来路上生活の毎日だ。」
「妻やお子さんは?」
「おれが30代のとこに、ココの近くの飲み屋の女と結婚したんだ。すぐに子供もできた。でも・・・突然死してしまったんだ。その後妻ともギクシャクし、別れた。そんなもんだから酒に浸りすぎていた。アル中にもなってしまったよ。今は労働センターのアル中のリハビリを受けているよ。」

なんとも、言葉では形容しがたい現実だった。

「いま望むことはありますか?」
「アル中から抜け出したいねぇ。アル中は辛いよ。」

「何が一番辛いですか?」
「自分に負けたことだ。最初の就職も人間関係が下手だった。自分を管理できない、そんな弱さが結局人生に跳ね返ってくる。一般的な生活すらできないんだぜ。なんなんだろうな、人生って・・・。」

「世の中に対しては?」
「暗いよねぇ。望みがないよ。」

Kさんの顔色が曇ってきた。
最後に質問をする。

「寂しさはどうですか?」
「寂しさはないよ。人生を諦めているし。
もう、いつ逝ってもいいと思ってる・・・。」

そういうと、Kさんはとても寂しそうな顔をしていた。
きっと心の中では、僕らには知りえない大きな悲しみや後悔、そして身内もいない完全に孤独な寂しさがあるのだろう。

Kさんにお礼をして、差し入れを渡すと、笑顔でお別れした。


【まとめ】
今回の目的は、山谷地区における現状のリサーチし、本だけではなく「自分の目で現実を見ること」である。机上の空論は必要ない。

Kさんという、最盛期の山谷を知る人から、山谷の現状とその人生にまで話をうかがうことができた。目的は達成できたと思う。

今回のリサーチを通して、僕達が過ごしている大学のような、フワフワした環境は当たり前のようで実は社会では少数派であるという認識を得た。

実際の現場は異臭もするし、正直労働者のガラは良いとは言えない。
それでも、そこには同じ人間が存在する。
自己責任の人もいれば、複雑な環境からそうならざるをえない人もいるだろう。
マスメディアの情報や人からの話ではなく、自分の目で見て聞いていくことで、
次の日本を背負う自分達の世代は何をする必要があるのかを議論する良い機会にもなった。

最後に・・・今回は派遣問題にまでリサーチができなかった。次回行う。が、このような、一見、自分には起こらないだろうと思われるような人生(例えば、ホームレス)は、意外と身近に存在する。僕だって、将来そうなる可能性を持っている。
そして一度転落したら、よほどのことがない限り戻ってこれないかもしれない。
そういう「現実」から目をそらさないで、冷静に対峙していく姿勢が最も重要であると思った。