今日も今日とてシフト制の休日。ということで「そろそろ発売のメタルギアソリッドΔを語りたいな~」なんて思っていた所にこんなニュースが飛び込んで来た。

『小島秀夫、「METAL GEAR SOLID Δ」をプレイするつもりはないと笑顔で語る』

ソースは探せばごろごろ転がっているのであえて載せることはしない。しかし、Δの発売一カ月を前にしてメタルギアソリッドの生みの親である小島監督が新制メタルギアに関して興味はないことをポツリと呟いたのである。元の記事をよく読むと実はインディーズゲームの方がやりたい的なニュアンスも含まれていた為、今のメタルギアを全否定というわけではないのかもしれない。しかし、新たなメタルギアの出発を応援している僕してはとても複雑な心境にならざるを得ない。僕個人としては他社のIPとなった今のメタルに関して監督自身からお墨付きを頂く必要は全くないと考えているが、一方でわざわざネガティブと捉えかねないコメントをする必要性も感じないのだ。発売後にあえてX(旧Twitter)の方でSH2Rに関して呟いていた坪山氏はとても上手い立ち回りだったと思う。(OGメンバーの伊藤氏や山岡氏を称えつつ持論とOG版制作秘話を展開されていた。)

前置きがまたしても長くなってしまった。そんなわけで折角だからデススト1を振り返りながら「僕がデススト2をやらない理由」をだらだらと語っていこうと思った次第である。結論から言えば「メタルギアほどのれなかった」「デスストは1できれいに終わっている」の二つに集約されるのだがもうちょっとだけ語らせて欲しい。(本当に時間のある方はよろしければ一読お願い致します。)

 

①メタルギアほど乗れなかった(ソーシャルストランドという概念)

 

まずメタルギアほどデススト1自体にのれなかったというのが理由として挙げたい。というのもデスストランディングというゲームは設定、ストーリー、ゲームシステム、遊び方、操作性など様々な要素が難解かつ尖った出来となっており端的に表現するのであれば「メタルギアの10倍は人を選ぶゲーム」といった所である。それ故に熱意のあるファンも多いのだが僕自身はあまりのる事ができなかった。

個人的に本作のイメージとしての致命傷を与えたのがストランド大統領のご遺体を運ぶというミッション。これがかなりきつかったのを覚えている。僕はこの話をゲーム仲間の友達とする際にラストオブアス1のチュートリアルを引き合いに出しながら説明することが多い。(*ラスアスのネタバレ若干注意)

 

ラストオブアスの場合、最初の操作キャラとしてスタートするのは主人公の娘のサラである。夜中にトミー叔父さんの電話で起きたサラはゆっくりと一階に向かっていき、そこでお隣のジミーの一家が病気でおかしくなっている事や街中の混乱を知る。そしてトミーとお父さんのジョエルと共にパンデミックの街から脱出を図る。しかし、途中で対向車とぶつかってしまい足を怪我してしまう。ここでサラに代わって操作キャラとなるのは主人公となるジョエルだ。サラを抱きかかえながら脱出するパートへと移っていく。

一方デスストの場合はいきなり現れた死にかけている大統領に難しい話をいくつかされた後にその遺体を焼却してくれというものである。

こうして文字に起こすと一見どちらのゲームも問題ないような導入の仕方に見えるが僕個人としては主人公とプレイヤーの一体感がまるで違うように感じられる。ラスアス1はお手本のような導入である。難解な説明などなくともサラとジョエルが今どのような状況に置かれており、街や周りの環境が如何に非常事態であるか車の移動シーンで伝わってくる。更にサラが怪我を負った事やトミーが囮になったことでプレイヤーとジョエルの気持ちは「なんとしても自分の娘を守らばければ」という想いとシンクロする。短時間で世界観の説明と主人公の目的がプレイヤーと自然な形で一致していくのだ。そしてその後の出来事があるからこそより一層プレイヤーはジョエルという人物に共感や一体感を覚えるようになっていく…

一方のデススト1の導入はまるで映画を操作してるような気分となる。一応補足をするとヴォイドアウトと呼ばれる危機的状況(焼却を行わなかった遺体が大きなクレーターを作ってしまう)からなんとかしないといけないという気持ちは沸いてくる。しかし、主人公のサムのこともよくわからない状況の中で更に素性が判明していない大統領の遺体をいきなり焼却しに行ってくださいと言われても「よくわからない」というのが正直な感想だった。大統領のミッションの段階ではデスストの独特な操作感を掴むのも難しい段階のため「なんで僕はこんな苦労をしてよくわからん国の大統領の遺体を運んでいるんだ…」という気持ちのほうが勝ってしまった。先述したラスアス1の様に自然な形で主人公と気持ちがリンクしていかないのだ。これが個人的には致命傷となって「デスストといえば?」と問われると真っ先にこれが浮かぶのだ。

ちなみにデスストはBTやBB、ヴォイドアウト、時雨、カイラル通信など独特な専門用語も多い。「メタルギアの時も多かったじゃん今更文句かよ!」と指摘する方も多いかもしれないが、メタルの場合は最悪そういったワードを理解してなくとも面白いという感情に持っていけるゲーム性だった。(ステルスアクションだからね)デスストの場合はこれらの専門用語は理解もしくは把握していかないと話が追い付かないためプレイヤーが自ら情報を仕入れながら理解していくといった作業が必要となる。しかし、こういった作業はそもそもゲーム自体が「面白い!もっとよく知りたい!」となってから生じる工程のはず。初めからプレイヤーに勉強をお願いするゲームは僕個人としては娯楽として厳しかったというのが率直な感想。一応フォローをすると公式サイトやゲームショウ等の生放送で小島監督自身が多くの設定や世界観を語っていた印象が残っている。熱心な方には導入自体は苦ではなかっただろうし監督自身も作品説明のフォローは沢山入れていたのだろうと推察する。(ちなみにこの頃僕はイナイレにお熱だったから流し見だった…すみません(__))

そういえば最近話題となったガンダムの新作ジークアクスも考察や作中の過程を楽しむのが良かったとの声も多い。もしかすると「ソーシャルストランドとはなんだろうか?」「どんな世界観なのだろうか?」といったモヤモヤを監督の発言やPVなどから考察し、少しずつ真実へとたどり着いていく過程そのものが面白かったのではないかと思ったりもする。もし、そうだと仮定するのならばゲームそのものが生モノになりつつあるのだろうか。

 

②「デスストは1できれいに終わっている」

色々と不満点を挙げてしまったが実は国道製作が解放された時点で日夜デスストをやるくらいハマっていたのを覚えている。(高校も休んだくらい)配送によってつながるUCAの世界観も面白かったうえに配送というゲームに向かなそうな要素に遊ぶ心を沢山盛り込んでいるゲーム性に惹かれた。ストーリーも最後まで難解ではあったが一定のハッピーエンドであろう終わり方となっており、デットマンとの別れは少しうるっとしたのを覚えている。

しかし、それ故にデススト2に気分が向かないのが現状である。デスストはサムとルーがUCAを離れて幸せに暮らした。それが僕の中ではこれ以上ない程のエンディングである。また、ソーシャルストランドゲームというもの自体も何度もやりたいかと問われると僕としてはそうではない。国道づくりやBTとの戦闘、時雨の対処なども初見であったからこそ面白かったという気持ちが強く、「もう一度すべて最初からやってください」となってしまうのは少し寂しい気もする。要するに2という作品を通して「あんなに綺麗に終わっていたのになぁ」と感じたり「実はソーシャルストランドって大したことなかったな」と思い出補正を上回れない事態を発生させたりする事が怖いのだ。僕の中ではデスストランディングは1で完結しており、2はやることはないというのが素直な気持ちである。やるならホラーのODをやりたいというのが正直なところ。

 

結局長々となってしまったがメタルギアソリッドΔが楽しみであることに変わりはない。発売を待ちながら労働に耐える日々を送るのであった( 一一)

それではこの辺で~

ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。