23年前も暑い日だった。
その日のことは今でも覚えている。
母が実家の石川県に帰るため、当日飛行機に乗っていたからだ。
夜の8時ごろだったろうか。
テレビのテロップが流れた。
「日航機行方不明」
背筋が凍った。
機上の人となっている母。
パニックになるとはこのことを言うのだろう。
その時電話が鳴った。
「今着いたよ」
母の声だった。
ホッとしたなんてものじゃない。
体から力が抜けた・・。
それからしばらくして、大阪行きだったことが分かり、
行方不明の日航機が墜落したことが報道された・・。
安心した自分だが、悲しみのどん底に落とされた人が大勢いたのだ。
御巣鷹の惨状は酷いものだった。
とてもまともな精神状態ではいられないものだった。
子供の着替えを持って御巣鷹に登っていた両親もいた。
そのなかには「のどが渇いているだろう」と水やジュースも入っていた。
乗っていたはずの家族の姿を探して皆叫んでいた。
愛する夫、妻、そして我が子の名前を・・。
そして遺体安置所に運ばれてくる多くの棺。
建物の中は40度を超えていた。
その中で身元を確認するために責任者となって奮闘した人がいる。
泣き崩れる人、床を転げまわって悲しみに打ちひしがれる人、
悲しみと疲れで倒れてしまう人・・。
その遺族の悲しみを受け入れながら、その人は懸命に身元確認作業に当たっていた。
そして、彼は言った。
「そんなご遺族と接して励ましていたが、私には家に帰ると家族がいるんです。
家に帰れば極楽なんです。 でもご遺族の方々は・・。」
と言ってしばらく嗚咽が止まらなかった・・。
そんなジレンマの中で彼は身元確認作業の責任者として仕事を全うした。
23年経った今、その遺体安置所はすでに撤去され慰霊碑が建っている。
「私の仕事はまだ終わっていないんです。」
すでに白髪になりながらも、暗澹たる気持ちだという・・。
御巣鷹山での日航機墜落事故で520人もの命を奪ったにもかかわらず、
安全対策は満足のいくものとはなっていない。
それは遺族の気持ちをないがしろしに、逆なでするもの以外の何物でもない。
この事故は、「人が人の命を奪う」大惨事の人災なのだ。
航空会社は、この事故を風化させずしっかりと安全対策に取り組んでもらいたい。
そして責任者の彼は最後にこう言った。
「生きたくても生きられなかった人がここにいる。
だから、「命」を大切にして欲しい・・」
一番の教訓はここにある。
われわれは大人として、この教訓を次世代に伝える義務がある・・。