差別表現 ブロガーも問われる責任と人権感覚


ネット普及と共に、「表現の自由」の権利が先行し、人権無視、差別が横行している。

「弱きもの」への誹謗中傷は後を絶たない。

自分自身もブロガーの端くれだが、そのような差別表現はした事はない。

むしろ、そのような事は書かないのが当たり前だから考えたこともない。


国家権力への「抗議」をやめるつもりは毛頭ないが。


いわれのない差別の歴史は長い。

人間は尊敬すべきものだ  (その時歴史が動いた「NHK」)

部落民族というだけで差別を受け、仕事も出来ず、結婚も出来ない。

日本にはこの差別という行為がとても根深いことが分かる。


自分が名を名乗り、相手に向かって言う事はせず、

この顔の見えないバーチャルな世界で、人権を傷つける。

何でもありなんて事はない。


「キモい」だの「ウザイ」だの、平気で個人を責める。

それも自分は名乗らず、相手の名前などの個人情報は暴露する。

なんとも心の荒んだ、器の小さいことか。


面と向かっては何も言えない。 自己満足の世界でとどまっている。

「討論」などしたことがないから、違うことを言われれば簡単に「キレる」。

相手は自分と違うことを認めることから始まるのに、まず自分だけを認めて欲しい。


だから、人を差別、誹謗中傷することで、自分の存在を知らしめたいのだろう。

自分は彼らとは違う人間だと、この世界だけでも「上」に立っていたい。


そんな歪んだ心の持ち主が増えてきている。

秋葉原の無差別殺人事件も、その中で起きたことのように思える。


自分の考えを発信することを逆手にとって、人を傷つけてはいけない。

たとえサッカー日本代表がレッドカードで退場しても、「消えろ!」なんてもってのほか。(嘉人、頑張れ!)


攻撃するなら、無駄遣い軍団、自公政権と中央官庁だけにしましょう。