
どこにいようと、誰といようと、何をしていようと、
自分が幸せと感じたら、それは幸せです。
夫婦間でいざこざがあって、他人が「奥さん、可哀想よね」と言っても、
本人が「それでも私はあの人といるほうが幸せ」といえば、それも幸せ。
幸せは、他人が評価するものではなく、自分で感じるもの。
ホームレスの人を哀れだと思っても、本人が気楽でこれがいいといえば、
それもホームレスの人にとっての幸せです。
他人に疎まれても、自分が感じている幸せがそこにあるのなら、やはり幸せなのです。
今生活が苦しくても、家族と共に朝を迎えられることは大きな幸せです。
そして仕事が終わり、家族と共に夜が迎えらることも同じく幸せです。
私は、朝と晩、元日に神社からいただく護摩札に柏手を打ちます。
自然災害や紛争で、家族と共に朝を迎えられない人たちを思えば、
何事もなく、こうして「普通」に朝を迎えられる幸せ以上に何を望むのでしょう。
お金はあるに越したことはありません。 欲しいのは確かです。
しかし、その強欲さのために家族がバラバラになる不幸は迎えたくありません。
生きていれば、辛いこともありますが、そればっかりじゃない。
生きていれば、心から楽しめる友が出来、困難に打ち克つ意欲も湧いてきます。
「あれもしたい、これもしたい、あれも欲しい、これも欲しい」
全てが達成されることも幸せかも知れません。 でも、そんな欲望は重要とは思いません。
その欲望の果てに大切なものを失ってまで欲しがるものが幸せといえるかどうか・・。
そんな人もそれが幸せと感じたら幸せなのです。
ただ、回りを不幸にしてまでわが身の幸せを欲する人に、
本当の幸せがやってくるとは思えません。
自分が幸せになりたいのなら、まずは人を幸せにしてあげることからです。
家族を幸せにしてあげれば、家族から幸せをもらえます。
そして最期は、家族に看取られて送られたい。
「アイツは幸せ者だ」と言われる時ではないでしょうか。
どこにいても、何をしていても、
そんな、心から温かくなる幸せを、家族と共に感じていたいものです。