小学校の高学年の頃から高校2年までセキセイインコを飼っていた。
名前は「ピコ」。手乗りにはならなかったが、可愛い仕草で毎日癒されていた。
ある朝、エサが少ないことに気付いたので帰りに買ってきた。
しかし、すでに6年以上も生きていたおばあちゃんだったため、
エサのケースに頭を突っ込んだまま死んでしまっていた。
底の方にはまだあったが、すでに力尽きていたのだろう。
家の庭の柿の木の下に埋めてやった。
自分がもう1日早く気付いていればまだ長生きできたと、その時はとても後悔した。
寿命とは言え、自分の不注意で死んでしまったことで、「ピコ」に可哀想なことをした。
それ以来動物を飼うことはしていない。
動物の死をしっかり受け止められない自分が、動物を飼うことはできないと思ったからだ。
北海道の友人を訪ねた時、犬4匹、ウコッケイを飼っていて、とても賑やかだった。
彼は現在、モルモット4匹も飼っている。
動物と共に生活することは、当たり前になっている。
長く動物を飼っているため、その死にも多く接してきた。
彼の息子は、物言わぬ小さき物への心遣いがしっかり出来ている。
死んでしまえば「二度と会えない」から、愛情を一杯に注ぐ。
それが実生活でも表れ、暴言を吐いたり、悪口をいうことは一切ないという。
特に、友達や自分よりも年下の人に対しては。
親が口うるさく言うよりも、動物を飼うことで、彼らが無言の教育をしてくれるという。
何も言えないから、動物たちが何をして欲しいかを一生懸命観察する。
生きているものには必ず「心」があり、愛情を注げばそれに応えるようになる。
上記に記載した「ペット里親会」を見ると、人間がいかに勝手に動物を扱っているかが分かる。
勝手に産ませ、勝手に捨てる。
彼らは、一体何のために生まれてきたのか。
虐待されるためでも、捨てられるためでもない。
少なくとも人間と共に生活するために生まれてきたのではないか。
自分が「生かされている」以上、わずかな命で救えることが出来ないだろうか。
好き嫌いもあるから、一概には言えないが、その一員になりたいと思っている。
家の事情もあり、すぐにとはいかないが、
この世に生を受けた以上、天寿を全うさせてあげたい。
「ペット里親会」とは全く繋がりはないが、
会員の方々のご苦労には感謝したい。
捨てる人間もいれば、救ってくれる人間もいる。
救えなければ、飼わない事だ。
その場の「可愛さ」だけで買ってしまうから、動物たちが不幸になる。
人間の身勝手さに、際限がないことが悲しい。
「責任」という言葉は、現代にはないのだろうか・・