ブログネタ:失恋の傷の癒し方 参加中

付き合った期間にかかわらず、想いが強ければ強いほど傷は深くなるものです。
年齢を重ねて失恋の日を振り返ると、
どうやって失恋の傷を自分で癒してきたか明確な答えは思い出せません。
感じ方は人それぞれですからね。

思い起こせば、傷を癒そうなんてことは私はしたことがありませんでした。
しかし、「失恋したことを忘れるほど何かに打ち込む」ことはありました。

6年間付き合った彼女と別れたのは、20数年前の12月19日だった。(よく覚えていると自分でも思うが・・)
当時サラリーマン1年目の自分にとっては、1日の仕事の忙しさに追われるだけだった。
婦人服販売の店だったので年末の休みは社員全員がなく、大晦日まで売り場の対応に没頭していた。
昼食は夕方に30分ほどしか取れないほどの忙しさだった。

彼女のことを思い出そうとしてもそんな暇がないのだ。
忘れようとしなくても、思い出すことが出来ない。
そんな状況が続いて、年が明け、新年は2日から冬物のバーゲンが始まる。
それが落ち着いたと思えば、次に入卒用にスーツ需要が続く。
売れた時代だったので、それが自分にとっては幸いしたのだろう。

いつの間にか、「失恋」したことも思い出に変わっていた。
自分には今この仕事をやりぬくことが一番であり、
彼女のことは「終わったこと」として納得していた。

自分の場合は、そういった「何かに打ち込む」状況にあったことがよかったのだろう。
しかしこれは偶然になったとも思っていない。
人によっては仕事そっちのけで、その傷に浸ってしまうこともある。
自分だけがこの世で一番不幸のように、自分で自分を演じてしまう人もいる。

男の立場でしか言えないし、経験したことでしか言えないが、
仕事だけに限らず、「他のことに打ち込む」ことが大切である。

時間は戻らない。
でも、時間は万人に平等に存在する。

いつまでもメソメソすることもその人の自由である。
しかし、その時でも時間は過ぎていく。
平等にある時間は、その人の使い方で天使にも悪魔にもなる。

思いきり落ち込んで、少し目線をあげてみると、意外と目の前は広がっているものだ。

自分の場合はあまりにも彼女といろいろな場所に行ったので、
海を見に行っても感傷的になるだけだった。
全く違う環境に自分を置いて、その場所にあるものに打ち込む。

それが仕事だろうが、新しい出会いだろうが、なんでもいいはずだ。

その仕事をする、または没頭する姿を見ている人が必ずいる。
決して自分が不幸だなんて思わないことだ。

いづれそれが良かったと思える日が必ずやって来る。
少なくとも、自分は自信を持っていえる。
「仕事に打ち込んだ」から、彼女を忘れることが出来、成績も上がり、
そして妻と出会ったのだから・・