私(=SRKWブッダ)が覚ったとき、「法の句」がこの世に出現することの意味についてひらめきがありました。

 

具体的に言えば、法の句の出現はいわゆる法界の諸仏のこの世へのアクセスであるということに深く納得したということです。

 

そして、このひらめきがまさしく理法に適ったことであり、正法の説くところのものそのものであり、そのことについての覚知が智慧を生じせしめ、ついに慧解脱することができたのは間違いないことなのです。

 

ところで、ひらめきと頓悟は実は無関係であると考えなければなりません。

 

と言うのは、弟子達の覚り(=解脱)の経緯を聞いたところそのようなひらめきがあったわけではなく、ただ正法の云わんとするところを模索していたところに法の句を聞き及び、その結果、覚り(=解脱)を生じたという場合が多かったからです。

 

要するに、私が覚りの瞬間に何某かひらめいたというのは、私の性格によるところが大きかったということなのでしょう。

 

実際、頓悟というのは、覚り(=解脱)がまるで突然に起こるという事実を形容したに過ぎず、それ以外の特別な意味を含んでいるわけではありません。

 

この機微については、知恵の輪で説明するのが分かり易いでしょう。

 

知恵の輪を解いたことがある人は知っているでしょうが、取り組んでいる途中で「こうすれば解けるのではないか?」というひらめきをしばしば生じますが、実際にはそれが解法に結びつくことはありません。

 

そして、知恵の輪はひらめきとは関係無く、まるで不意に解けることになります。

 

覚りに向かう道の歩みも、同様です。

 

仏道修行の途中において何某かのひらめきを生じる修行者もあるでしょうが、それらが覚りの機縁となることはなく、そのようなこととは無関係に覚り(=解脱)を生じることになるのです。

 

逆に、ひらめきを特別視する修行者は、道に迷いやすくなる傾向も見られます。

 

大事なことは、仏道修行はすべからく無心で行うべきことです。

 

見せ掛けの途中の実りに幻惑されることなく、気をつけて、静けさを目指して邁進すること。
 
それが、仏道修行者のあるべき姿なのです。
 
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