仏道修行は、基本的には遍歴修行のかたちをとることになります。

 

しかしながら、ある修行者は、修行が迷走してしまうこともあるでしょう。

 

その違いはどこにあるのでしょうか?

 

これについては、釈尊の原始仏典に次の理法を見ることができます。

 

13 修行僧が、心が高ぶりざわざわして、恣に怠りなまけて、外のことがらに心を向けているならば、戒めと精神統一と智慧とは完成しない。(感興のことば・ウダーナヴァルガ 第六章 戒め 中村元訳 岩波文庫)

 

なお、正しく仏道修行を為している人は次のようであると説かれます。

 

144 鞭をあてられた良い馬のように勢いよくつとめ励めよ。信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないとを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除くであろう。(真理のことば・ダンマパダ 第十章 暴力 中村元訳 岩波文庫)

 

2 良い馬が鞭をあてられると、勢いよく熱気をこめて走るように、つとめ励め。信仰あり、また徳行をそなえ、精神を統一安定して、真理を確かに知って、智慧と行ないを完成し、思念をこらして、このような境地に達した人は、すべての苦しみを捨て去る。(感興のことば・ウダーナヴァルガ 第一九章 馬 中村元訳 岩波文庫)

 

さて、修行者の修行が迷走してしまうのは、「外のことがらに心を向けている」ためであると言ってよいでしょう。

 

つまり、仏道修行のあり得べきかたちは、基本的に内省によって修行を進めることであると言うことです。

 

実際、釈尊の原始仏典にも次の理法を見ることができます。

 

174 「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。(ブッダのことば・スッタニパータ 第1 蛇の章 9、雪山に住む者 中村元訳 岩波文庫)

 

このため、「仏道修行は最初から最後まで各自のことがらである」と説かれ、同時に、「仏道修行者は自分ならざる何ものにも依拠してはならない」とされるのです。

 

そして、修行遍歴の転換点においてもそのようであるべきであり、それが結果的に正しい遍歴修行となって修行者はニルヴァーナへと近づくことになるのです。

 

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