仏教においては、誰を友とするかしないかをしっかりと見極めよと説かれます。

 

例えば、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができます。

 

47 われわれは実に朋友を得る幸(さいわい)を讃め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。

 

58 学識ゆたかで真理をわきまえた、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を去って、犀の角のようにただ独り歩め。

 

また、別の仏典においては、仏道修行者が付き合うべきではない悪しき友についても説かれます。

 

37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。(ブッダのことば・スッタニパータ 第1 蛇の章 3、犀(さい)の角 中村元訳 岩波文庫)

 

253 恥じることを忘れ、また嫌って、「われは(汝の)友である」と言いながら、しかも為し得る仕事を引き受けない人、──かれを「この人は(わが)友に非ず」と知るべきである。(ブッダのことば・スッタニパータ 第2 小なる章 3,恥 中村元訳 岩波文庫)

 

他の原始仏典においても、友の是非可否について説かれています。

 

1 明らかな智慧のある人が友達としてつき合ってはならないのは、信仰心なく、ものおしみして、二枚舌をつかい、他人の破滅を喜ぶ人々である。悪人たちと交わるのは悪いことである。

 

2 明らかな智慧のある人が友達としてつき合うべき人々は、信仰心があり、気持ちのよい、素行のよい、学識ゆたかな人々である。けだし立派な人々と交わるのは善いことである。

 

11 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。

 

21 (友となって)同情してくれる愚者よりも、敵である賢者のほうがすぐれている。同情してくれる愚者は、(悪いことを教えて)ひとを地獄にひきずりおろす。(感興のことば・ウダーナヴァルガ 第二五章 友 中村元訳 岩波文庫)
 

 

さて、このように、仏道修行者がどのような人を友とし、あるいは友としないかによって彼の修行の是非可否が決まると説かれていることが分かるでしょう。

 

ちなみに、釈尊の存命時においてはサンガ(僧伽)が善き友の集団の具体的なかたちとして存在しており、サンガに属していることがすなわち善き友に囲まれていることの証でありました。

 

そして、そのことが出家生活が在家生活よりもすぐれていることを保証するものであったと考えられるのです。

 

ところが、現在では事実上サンガ(僧伽)が失われており、こころある人が覚りを目指して出家しようにもその宛がありません。

 

このため、現在においては覚り(=解脱)に関しては出家も在家も同じ条件下にあると考えられるのです。

 

したがって、現在の仏道修行者が周到に覚りに近づけるかどうかは、友に関する理法の本義である善き友を自ら峻別する目をもっているかどうかにかかっているということになるのです。

 

それを実現するには、功徳を積まなければなりません。

 

何となれば、しっかりと功徳を積んだ人だけが、善き友を友とし、ニルヴァーナへと至るこの一なる道を自ら見出し、さらに功徳が積まれて、ついに作仏することを得るからです。

 

***