自ら考えることなく、誰かに言われたままに修行する。
しかしながら、それでは覚る(=解脱する)ことはできないでしょう。
なぜならば、覚りの機縁に臨んで、仏道修行者がもし考えるということがなければ覚りを生じることはないからです。
すなわち、智慧は仏道修行者自身が自らの因縁によって作り出すものであり、その創出の機縁、つまり切っ掛けが法の句を耳にしたということなのです。
したがって、熱心な仏道修行者であっても法の句を耳にしただけでは覚る(=解脱する)ことはできません。
世に希有なる法の句を耳にして、その出自の真相を自ら知ろうと思い、考え、そのあり得べき答えに正しく辿り着いたとき、智慧を生じ、作仏することを得るのです。
このため、覚りのメカニズムはあると言えばあるのですが、それを図式化することは出来ないのです。
例えば、数学の幾何学の証明問題をいろいろと解いたことがある人は、新しい問題を出されても解くことができると期待されるでしょう。
彼は、もちろん適切に考えて答を発見するに至るわけであり、考えることなしに答えを見つけることはできないでしょう。
仏道修行者が智慧を見出す(=創出する)ことも同様です。
しっかりと功徳を積んだ仏道修行者が、覚りの機縁に臨んで智慧を見出し、ついに作仏することを得る。
これを実現するとき、「考える」ということなしには不可能だということなのです。
ただし、それは論理的なものではなく直観的なものになります。
それを成し遂げる元のものが功徳を積むことであり、そのため「功徳とは、見性することに巧みであり、素直なこころが徳そのものであることを云う(六祖慧能ブッダ)」と説かれることになるのです。
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