この世には、もろもろの如来が説いた理法が存在しています。

 

ここで重要なことは、誰がその理法を説いたかではなく、誰がすでに説かれた理法を聞き知ってその意義を認め、以て自分自身の道の歩みに役立てて覚る(=解脱する)ことを得たかどうかということなのです。

 

このようなことから、ある人が説かれた理法に対して疑念を持っていたとしても、それを他の人々にそのままに伝えたならば、彼は大きな功徳を積んだのであると言えるのです。

 

そうして、そのような人の中には当初抱いていた理法についての疑念を払拭することを得て、自分自身がその理法の意義を理解するに至るのです。

 

このとき、その理法は彼をして誰よりも大きな働きを示すことになるでしょう。

 

ところで、彼がそれとは別に理法に反することを他の人々に吹聴していた場合、彼の功徳はどのようになるのでしょうか?

 

要するに、互いに相反する理法を同じ人が他の人に伝えたという場合です。

 

微妙な問いですが、基本的には正しく伝えた理法が相反する理法を伝えたことに打ち克ち、全体として正しく理法を伝えたことと同じになるとして大過ないでしょう。

 

この意味において、仏道修行者は自分の仏教理解の浅深や正誤にこだわることなく、ただ自分が正しいと思った理法を他の人々に伝えるべきであり、それがまさしく方便の説を語ったことになるのです。

 

そして、このような理法の性質から、仏教は世にも不可思議なる妙薬をもたらすものであると説かれるのです。

 

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