「こころからしあわせの境地に至ることを願い、真実を知ろうと熱望する人が、次第次第に功徳を積んでついに覚る(=解脱する)。」

 

これが、仏道修行の全貌です。

 

ところで、「真実を知ろうとする」とは具体的にどのようなことなのでしょうか?

 

それは、目の前で今まさに起こっていることがらについてその本当のことを知りたいと思い、自分の経験や記憶、その他想起されるあらゆることを総動員することなのです。

 

つまり、何か固定的な真実があってそれを明らかにするようなこととは意味が違うということです。

 

では、どうして目の前で今まさに起こっていることがらについてその本当のことを知ることが覚り(=解脱)に結びつくことになるのでしょうか?

 

それは、その目の前で今まさに起こっていることがらがこの世に滅多に出現しない〈大事〉であり、その本質を理解するためには本人がそれまでにこの世で知ったあらゆることがらを総動員せざるを得ないのですが、実際はそれが何一つとして役に立たず、しかし押してそれを知ろうとするために結果的にこの世のものではない知見(=仏智)が現出することになるからです。

 

いわば窮すれば通ずということに似ているのですが、窮したから智慧が現出したのではなく、その人の心底に真実を知ろうとする熱望があるゆえに、それが仏教への信仰とそれまでに積んだ功徳に結びついて、不可思議なる智慧を生じたということなのです。

 

大事なことは、仏道修行者は目の前に起きたことがらについて、それがどんなに些細なことであっても疎かにせず、よく気をつけていて、苦の根源を知ろうと観察し、功徳の現れに任せるべきことです。

 

なお、その真実が仏典の根幹である正法の通りにまさしく現出することを作仏後に知ることになるのですが、覚り以前においてそれを知ることはありません。

 

このため、もろもろの如来は、仏道修行者は正しい信仰を保っていることが極めて重要であると説くのです。

 

真実を知ろうとすることは、上記のことがらをすべて引っくるめたものであることを仏道修行者は知らなければならないでしょう。

 

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