釈尊の原始仏典が話し言葉(パロール)を主体として綴られているのに対して、大乗仏典は、書き言葉(エクリチュール)で綴られています。

 

このことから、大乗仏教教団は大乗仏典が作られた後に形成されたという説が提唱されています。

 

と言うのは、人の文化的な集まりは、先に明文化された概念があり、それに賛同する人々が寄り来たるという形で形成されるのが通常と考えられるからです。

 

そして、このようにして大乗仏教教団が成立すると、今度はその教団の活動の結果として新たな創出物として大乗仏典が作られるようになり、これが数百年にわたって続いたと見られるのです。

 

ところで、なぜいきなりエクリチュールによる仏典が出現したのでしょうか?

 

推定されることは、原始仏典にしたがって仏道修行をしていた修行者集団において時を同じくして複数のブッダが出現し、その知見を政策委員会的に仏典に纏めようとしてエクリチュールによる仏典が提示されることとなったのかも知れないということです。(そのため、大乗仏典にはそれを記したブッダの個人名が書かれていない——書きようがなかった——のかも知れません。)

 

その結果、その後も一人のブッダが理法を語りそれを単に記録するという形で仏典が成立するということはなくなり、複数のブッダ、あるいは複数の有識者によって組織的に大乗仏典の編纂が行われて、そのためほとんどの大乗仏典はエクリチュールを用いて記されることになったと推定されます。

 

すなわち、釈尊時代の原始仏典のような口語でいわば無作為に説かれた理法を、長さや内容の類似性などに基づいてまとめ上げた寄せ集めとしての仏典ではなく、最初から章(品)の構成を考えて書かれた著作物としての仏典が作られるようになったと見られるということです。

 

その結果、大乗仏典は一種体系的な体裁をとるようになり、大乗仏教の大きな特徴である方便の説を一般人にも分かり易く説くために物語性の高い内容が採用されるようになったと見られます。

 

あるいは、覚り(=解脱)のメカニズムを分析し、その学術的な根拠を論理的に示そうとする試みも為されたようです。

 

さらには、大乗仏典のエクリチュール性が限度を超えて拡張された結果、一見して荒唐無稽な物語や、偽経に結びついてしまう想像力を駆使した論典も見受けられるようになります。

 

ここに至り、仏教典籍は玉石混交の様相を呈するようになるのですが、たとえ紙に書かれた典籍はどのようであろうとも、覚り(=解脱)の本質的なメカニズム自体は釈尊当時と変わりはありません。

 

大事なことは、覚りの機縁は「法の句」というパロールでもたらされるという事実であり、原始仏典、大乗仏典、およびその他の仏教典籍を含め、引っくるめて、覚り(=解脱)の根幹にあるのはパロールであるということです。

 

このことさえ見失うことがなければ、仏道修行者が修行の寄る辺となる仏典を何に求めようとも、ついには覚る(=解脱する)ことができるに違いないのです。

 

すなわち、真実を知ろうと熱望し、気をつけている人が、次第次第に功徳を積んで、ついに作仏することになるのです。

 

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