覚り(=解脱)を目指して修行している人が仏教を学ぼうとする場合、どの仏典を読めばよいか選択に迷うことがあるかも知れません。
実際、世にはいろいろな仏典が存在しており、その中には偽経も紛れています。
しかも、とくに初学の修行者にとっては、どれが正しい仏典でどれが偽経であるのかを区別することは難しいでしょう。
先輩に正しい仏典を紹介してもらおうにも、その先輩が正しく仏典と偽経とを弁別できる保証もありません。
強いて言えば、すでに覚り終えた如来に仏典を紹介してもらうことが一つの方法でしょうが、その時点において生き身の如来が存在していとは限らず、仮にそれが可能であったとしてもそれさえも絶対的な方法とは言えないのです。
何となれば、正しく説かれた仏典を読んでも、心構え正しからざる者にはすべてが悪魔の説を化してしまうからです。
要するに、修行者は玉石混交の典籍の中から自分自身で正しい仏典を選び出し、学ばなければならないということになるのです。
明知ある修行者は、それを難なくやり遂げることでしょう。
そうでない人は、典籍の遍歴を為さざるを得ないでしょう。
また、正しく説かれた仏典を誹謗する者は、地獄に墜ちることになるでしょう。
このことについて、自分以外の誰かに頼ることはできず、意味を為さず、それゆえに仏道修行は最初から最後まで各自のことがらであると説かれるのです。
ただし、これは自己責任ということではありません。
初学の修行者が物を欲しがるようにニルヴァーナを求めたりせず、心構え正しく、真実を知ろうとする熱望ならば、自ずから正しい仏典に出会い、読み、学び、功徳を積むことを得て、ついには覚る(=解脱する)ことができると期待されるからです。
この真理を信じることができるようになることが、仏道修行の最初の修行であると言えるでしょう。
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